◆幻の革新的チャレンジ
しかし、1980年代の前半に、日本的な金融システムを変えようとするうねりもあった。1981年に誕生した米国のレーガン政権のもとで、、日本への金融の自由化と開放圧力の強まりは、日米の金融・貿易摩擦の起点となるうねりだった。
改革とは、外圧を内部の力と結びつけて変革につなげるリーダーシップのことである。1980年代の前半、まだバブルが顕著な形をとるまえに、二つの革新的な試みがチャレンジされ、水面下でつぶされた。
一つは、1983年7月に日本経済新聞がスクープする「野村証券とモルガン・ギャランティ・トラストが共同で信託会社を設立する」というニュースだった。いま一つは、1983年6月に大蔵省証券局長に就任し、1985年1月、プラザ合意の半年前に憤死する佐藤徹が水面下で画策した、日本興業銀行を、米国流の投資銀行に転換する構想である。
片や、世界最強の信託業務の実績を持つ外国銀行と、日本の新興勢力野村証券が、将来の成長分野である信託業務に参入するという、日本金融制度をゆさぶる大ニュースだった。 片や、1970年代以降、役割が終わったにもかかわらず、日本の金融界に君臨し続けていた興銀を、米国流の投資銀行に変えさせようという大胆な大蔵官僚が、レーガンの激しい圧力の中に、日本にもいたという事実である。
しかし、大蔵省を中心としたエスタブリッシュは、あろうことか、円ドル委員会の最中、「野村・モルガンの信託会社構想」を葬るために、アメリカ政府と水面下の取引をする。外銀信託を全面的に解禁することと引き換えに、この個別案件を葬り去るのである。世界一の運用会社モルガン・ギャランティに学ぶという千載一遇のチャンスを、日本の金融界は放棄したのである。
また、日本興業銀行が、佐藤徹の投資銀行構想に乗れなかったポイントは「銀行」という名前にこだわったからだと言われている。その15年後、「銀行」どころか、「日本興業銀行」という100年の歴史を誇る行名自体をなくすことになる。