歴史上の人物について私たちが持つイメージは、往々にして学校で習った内容や、小説やテレビドラマなどで描かれる姿そのものだったりする。一方、歴史研究の世界では新たな史料が発見され、これまでの“常識”が覆ることがある。「徳川家康」は信長、秀吉に次いで天下を統一し、その後260年余続く江戸幕府の礎を築いた。織田家や今川家の人質となりながら戦国の世を生き抜き、天下人へと成り上がった。敵対する勢力に謀略や政治闘争を仕掛ける策士としてのイメージが強いが、前衆議院議員の村上政俊氏が「素顔」について指摘する。
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私の専門は国際政治であり、代議士として議会にも身を置いていたが、過去の為政者の思いを知ることは現代の我々にも大きなヒントになると考えている。そうした観点からは(一大阪人としては感情的なしこりはあるが)徳川家康はとてもよいサンプルだ。
家康といえば冷徹な策士のイメージが強い。天下分け目の関ヶ原では小早川秀秋の寝返りを画策して成功し、勝利の流れを手繰り寄せた。大坂の陣では方広寺の釣鐘の銘文にイチャモンを付けて豊臣家を滅ぼすきっかけを自ら作り出すなど、目的のためには手段を選ばない姿勢を貫いた。
権謀術数に長けて“老獪な策士”と呼ばれ、人智を超えた力などとは無縁と思われがちな家康が、実は「験担ぎが大好きだった」といえば意外に思われる読者も多いだろう。
家康の場合、そもそも戦からして神仏頼みだ。信仰した愛宕権現は勝軍地蔵菩薩のまたの姿であるが、「勝」という字にあやかろうとしたストレートさには近寄り難い偉人というより親しみ易さが滲む。
家康は先達の中でも特に源頼朝を尊敬し鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」を愛読して範とした。平治の乱に敗れた源義朝の嫡男でありながら、頼朝が命を長らえて幕府を樹立できたのは、平清盛が頼朝の命を助けたからだ。伊豆の流人から再び身を興した頼朝の姿に、家康は自らの人質時代を重ね合せていたかもしれない。家康は大坂の陣の際に、この清盛の脇の甘さと頼朝の強運が当然念頭にあっただろう。清盛の轍を踏むまいと。