【書評】『裁判の非情と人情』/原田國男・著/岩波新書/760円+税
【評者】岩瀬達哉(ノンフィクション作家)
「いくら勉強ができて理論に詳しくとも、人間観察の力がないと、理屈だけの薄っぺらい裁判官になってしまう」。だから、「私は、若い裁判官によく池波正太郎の『鬼平犯科帳』を読め」と勧めてきた。
裁判官は、「名もない顔もない」堅物とよく言われるが、人の弱さを見続ける職業でもある。元裁判官の著者は、ぬくもりのある語り口で、その人生を振り返る。
日本の刑事裁判の場合、検察が起訴すれば、99%有罪判決が下される。検察官の主張を撥ね付け、「無罪判決を続出すると、出世に影響して、場合によれば、転勤させられたり」するからだ。
それでも著者は、被告が「可哀想だなと思ったら」、検察官の控訴を恐れることなく、「軽い刑や執行猶予」にしてきた。「高裁時代、二〇件以上の逆転無罪判決をした」ことで、批判と喝采の意見でネットが“炎上”したこともあった。そんなエピソードを交え、軽妙洒脱な文章で、刑事裁判官の知られざる日常を語る。
人が人を裁くという仕事は、一方で裁く者にも重い荷を背負わせ、薄氷の上を歩む思いをさせるという。冤罪事件が多発するなか、多くの裁判官は、「再審にしろ、通常の裁判にしろ、無罪となったのであるから、裁判所の判断は、最終的に正しかった。裁判所が無罪としている事件は、その意味で、冤罪とはいえない」と考える。
およそ自己欺瞞だが、そうでも考えないとやっていけないということだろう。息が詰まりそうな重圧の中にあって、先輩裁判官からの薫陶に助けられてもきた。なかでも「人生の達人」というべき先輩からは、「まず、余暇を入れて、その残りで仕事をしなさい」と諭された。そうすることで、仕事の効率が増し、豊富な経験と社会の実情に通じることができた。
「裁判は、権力により無実の者を死刑に処しうる。まさに、非情である。他方、その中にも人情を感じさせる判断もある」。その狭間で悩み続けてきた著者の生きざまは、「世間と裁判」の垣根を取り払う効力がある。
※週刊ポスト2017年4月14日号