【書評】『ボローニャの吐息』/内田洋子・著/小学館/1600円+税
【評者】川本三郎(評論家)
海外旅行が次第に億劫になってきたシニアにとって、本のなかの旅は現実の旅以上に面白い。イタリア在住三十年余になる内田洋子さんのエッセイはとくに愛読している。町を見る視点や人間観察が温かく、優しい。
ミラノに住む。ファッションやライフスタイルの最先端をゆく町だが、意外に古いものを大事にしているという。二十世紀初頭に登場した路面電車が市中を今も当時のままに走っている。「座席も窓枠も床も木製で古びていて、硬いように見えるが座ると優しく、心底ほっとしたものだった」。なにしろ市の中心にある大聖堂は五百年もかけて造られた。文明とは古さの良さにある。
人間好きの著者は、よく町を歩き、よく旅をする。モロッコのマラケシュに行く。一人で、はじめての市場の奥の奥まで歩いてゆくのだからその行動力に驚く。
ギリシャのロドス島では地元の女性歌手と、旧市街で猫と暮している公務員と親しくなる。ヴェネチアでは、昔ながらの活版印刷所や仮面作りの工房を訪ねる。観光名所より市井の暮しの方がいい。
好きな一篇がある。夏のミラノはヴァカンスで多くの店が閉まる。残った単身者は食事に困る。ある日、やっと開いているバールを見つける。ところが開店閉業状態。一人だけの客に店主は、出せる料理がないと言う。無理に頼んで、ありあわせのものでパスタを作ってもらう。そのおいしいこと。ところが店主は言う。もうじき店を閉じると。永遠に。短篇小説の味わい。がらんとしたバールが目に浮かぶ。
魅力的な人間たちが多い。ガラス鉢のなかの魚をじっと見ている人気ミュージシャン。何人もの犠牲者を出した飛行機事故の追悼のために、大きなオブジェの飛行機を作ったアーティスト。九十歳になっても現役の俳優。南イタリアの小さな町の宿坊で働く実直な女性と、絵画や彫刻を車で運ぶ仕事を誇りに思っている運送業の男性はとくに心に残る。
※週刊ポスト2017年4月14日号