小学校では「聖徳太子(厩戸王・うまやどのおう)」、中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記すべし──文部科学省が今年2月に発表した、「聖徳太子」に関する学習指導要領改定案には、「混乱を招く」と反発が広がった。その後、小中学校ともこれまで通り「聖徳太子」で統一することになったが、この騒動の背景には多くの奥深い謎がある。本誌・週刊ポスト人気連載『逆説の日本史』の作家・井沢元彦氏が解説する。
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「聖徳太子」というのは死後に送られた称号で、本名は「厩戸皇子」、または「厩戸王」です。ですから歴史学者が、正確を期すため本名の「厩戸王」で呼ぼうとするのは悪いことではありません。
しかし一方で、彼の功績が「聖徳太子」という名前とともに長く語り継がれてきたこともまた事実です。決してこの名前は教科書から消すべきものではありません。
〈厩戸王は用明天皇(31代)の第二皇子で、厩屋(馬小屋)の戸の前で生まれたことから「厩戸王」と名付けられたとされている。最初の女性天皇である推古天皇(33代)のもとで摂政として権勢をふるい、十七条憲法や冠位十二階を制定し、遣隋使の派遣などを行なった。死後、「聖徳太子」と呼ばれたのも、彼の功績が偉大だったから──というのが通説である。しかし、井沢氏はまったく別の視点から「聖徳太子」の称号を捉える──〉