【書評】『「本をつくる」という仕事』/稲泉連・著/筑摩書房/1600円+税
【評者】関川夏央(作家)
「本をつくる」仕事に従う人々を著者は仕事場に訪ね、インタビューした。「書体」製作者、製紙技術者、活版印刷屋、製本屋、校閲者、装幀家、本の版権を世界相手に売買をするエージェント、それに書き手である。
近代日本で木版から活版への転換は急速だった。その初期の一八七六年、つまり西南戦争前年、秀英舎(大日本印刷=DNP)は創業した。一九一二年、職人の手彫りで完成させた活字書体「秀英体」を、現代のセンスと媒体に合わせる「大改刻」を二〇一二年に完成させた。合計十二万字をコンピュータでつくり、最終的に人の眼で判断した。書体は「明るさ」「威厳」など、版面や文章の「声」を伝えてくるのが書体である。
「校閲」は「校正」ではない。たとえば、作家が年月日を特定した夜を「まぶしいほどの月光」と書く。すると校閲者から、「OK」その夜は「満月と下弦の間」とメモ書きされたゲラが戻ってくる。調査の虫のような校閲者が、単行本なら三人が四回ゲラを熟読し、いい加減な記述はすべてチェックされハネられる。自己都合の中国共産党史や韓国の近現代史は「校閲」に耐えられないだろう。
二〇〇三年、DNPでは活版事業部を廃止した。紙の本の売上げはこの二十年間、年ごとに落ち続け、もはや産業としての出版は終った。大量出版・大量消費・大量「積ん読」が常態で、本が売れに売れた一九六〇年代から八〇年代が、夢のようだ。
著者・稲泉連自身をはじめ、書き手は「本づくり」の主役ではなく、その一要素にすぎない、という認識から出発したこの本の登場人物たちは、みな仕事に苦労は感じても苦痛とは思っていない人々である。
そんな彼らが「紙の本」の希望を語る。人が生きるために「文学」は必要だが、その「文学」を堅牢に、また紙とインクのにおいとともに美しく包む「工芸品」としての本は、人の憧れと所有欲を誘ってやまないはずだ、とこぞっていうのである。
※週刊ポスト2017年4月21日号