【書評】『多田駿伝 「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念』/岩井秀一郎・著/小学館/1700円+税
【評者】平山周吉(雑文家)
瞠目すべき書物の出現である。近年の昭和史物の収穫といえる傑作である。「多田駿」という名を聞いても、多くの人にはピンとこないだろう。動乱の昭和史にあって、最も重要な役割を果そうとして、阻まれた無念の軍人である。
ほとんど史料が残されていないと見られた多田の事蹟を発掘し、遺族の証言を引き出した。のみならず、徹底的な探索で、その高潔な生涯と思想を丹念に描いている。著者の岩井秀一郎がまだ三十歳の若者であり、会社勤めのかたわらの調査、執筆と知ると、瞠目は何重にもなった。
陸軍統帥部の事実上のトップとして、多田は支那事変の拡大を防ぎ、日中和平にもって行こうとした。昭和十三年一月のことである。政府は多田の強固な意見を無視して、「国民政府を対手とせず」声明を出し、中国大陸での泥沼の戦線にハマって行った。翌年八月に多田は陸軍大臣に決まりかけるが、昭和天皇の忌避により、その人事も立ち消えになった。昭和日本の滅亡を救い得たかもしれない二度の機会、その幻の主人公が多田駿である。
「支那通」軍人として大陸勤務が長かった多田は、中国人をよく知り、かの地での日本人の傲慢にも注意を怠らなかった。満洲事変を企図した石原莞爾は盟友であり、張作霖爆殺の河本大作は義兄であった。誤解を招きやすい人間関係はマイナスに働いたろう。支那事変不拡大を主張した時には、「弟宮」秩父宮が部下として支えていた。これも結果的にはマイナスだったかもしれない。
昭和十三年一月の大本営政府連絡会議で、内閣総辞職をチラつかせた米内光政海軍大臣に対し、多田は「明治大帝は朕に辞職なしと宣えり」と涙ながらに訴えた。その時の多田の真意を、著者は多田の孫から聞き出している。本書で是非読んでもらいたいところだ。巷間言われてきた「男装の麗人」川島芳子との関係についても、珍しい写真を提示して新事実を発掘している。歴史を知る醍醐味をたっぷり味わえる本だった。
※週刊ポスト2017年4月21日号