【書評】『徳川家康 われ一人 腹を切て、万民を助くべし』/笠谷和比古・著/ミネルヴァ書房/3500円+税
【評者】山内昌之(明治大学特任教授)
著者には歴史家に必要な構想力と考証力と叙述力が過不足なく備わっている。まずは現時点での家康伝の決定版が誕生したことを喜びたい。
徳川家康は、豊臣秀頼との二重公儀体制を受け入れる用意があった。著者は、西国における豊臣家の存在を認めた上で、別個に新たな政治体制を設けたと主張する。加藤清正、福島正則、浅野幸長といった豊臣恩顧の武将たちは、関ヶ原合戦の時には家康の軍事指揮権に従ったが、秀頼への忠誠を保持したまま家康の統率を受け入れたにすぎない。
関ヶ原での大野戦の主役は、福島はじめ外様の有力武将であり、徳川本隊は地政学的な戦略構造を意識していたとはいえ、上田合戦で手間どって決戦には遅参した。これは家康最大の政治危機となった。先鋒の福島を出し抜いて井伊直政や松平忠吉が抜け駆けをしたのは、そうしなければ勝利の暁に徳川の発言権が弱くなるからだった。
家康は、ひとまず秀頼に徳川主導の政治体制を認めさせながら、その超然たる存在にも一目をおかざるをえない。西国にまだ譜代大名を配置できなかった家康は、千姫を秀頼に配偶することで徳川と豊臣の共存共栄を図ろうとした。
政局的戦略観と秀頼への保護責任は重要であろう。しかし軍事カリスマとしての家康を畏敬する豊臣恩顧の武将も、没後には二代将軍秀忠と秀頼を天秤にかけてどう動くか分からない。ここに家康の懊悩もあった。
さらに大きな脅威は、毛利、上杉、佐竹といった関ヶ原負け組の旧族大名も、自分の死で好機到来とばかりに同盟を組むかもしれない。こうして方広寺大仏殿鐘銘事件を機に大坂の陣開戦に踏み切ったというのだ。歴史の大局を論理的に説明する手際はさすがというほかない。
やや疑問に思うのは、二重公儀体制と共栄共存を是とした家康の真意である。旧族大名や豊臣大名を減封なり加増の違いはあっても安堵した政治選択の背景と、豊臣と戦う決心を迫った衝動との間には、もう一つクッションがありそうにも思えるからだ。
※週刊ポスト2017年4月28日号