冒頭「燕のいる駅」から最終話「燕のいた駅」まで、カメラは日本村四番駅及び、島内の公園や〈カフェ「武蔵」〉、さらに〈葬儀屋〉御一行が葬式あるあるネタの披露に興じる豪華客船へと飛び、どこにでもいそうな人々の、一見どこにでもありそうな1日が、曼陀羅さながらにコラージュされてゆく。
例えば高島や戸村の場合。男はもうこりごりと言いながら、戸村は高島の好物のカレーパンを毎朝せっせと買いに行き、高島は高島で彼女が毎日2つずつ買ってくるそれを、職務の合間に食べるのが楽しみだった。
そんな2人を彼の幼馴染でもある駅員〈ローレンコ三郎〉は微笑ましく見守りつつも、〈どうなってるの?〉と心配せずにいられない。しかし高島の興味は駅舎に巣を作った燕の方にあるらしく、毎日ヒナの成長を見守っては、好物のカレーパンを齧るのだ。
あるいは〈大和公園〉でお気に入りのモーツァルトを聴きながら、某人気文化人の著書『恋愛の正体』を読む〈中本和則〉の場合、園内でお喋りに耽る2人の女性が気になってならない。
彼は童顔でグラマーな方に〈可憐おっぱい〉、美人だが冷たい感じの女に〈コールド女ギツネ〉と渾名をつけ妄想を逞しくするが、イヤホンを外した途端、聞こえてきた〈不倫でいいの〉という言葉に、印象は一転。2人を〈アバズレおっぱい〉と〈テンダーフォックスちゃん〉に改称する彼だが、さらなる衝撃の事実に襲われるのだ(「妄想と現実」)。
「実は僕も女性をオッパイで見ちゃうところがあって。『この前紫の服を着てたよね』と話しかける時は、大抵、服じゃなくて紫色のオッパイを憶えている、という感じです(笑い)。
好きな女性の元カレのサイズが気になるあまり、彼女に〈小さいおチンチンが好き〉と言わせる「心変わり」にしても、エピソード1つ1つは喜劇。例えばチェーホフは『三人姉妹』や『ワーニャ伯父さん』を書く前、今のコントに似た寸劇を無数に書いている。でもその笑える話を幾つか並べて俯瞰すると、悲劇にすら思えてくるんです」