1958年、夏の甲子園大会で史上最多の83奪三振や「延長18回引き分け」の記録を残し、中日ドラゴンズでも活躍した板東英二氏。しかし、生年月日を巡る“あるドラマ”がなければ、この大活躍はなかったかもしれない──。本人が語る。
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僕は1940年3月31日の生まれなんです。1947年4月に満州から母の実家があった神戸に引き揚げてきて、小学校に入学しました。普通、小学校には6歳で入学して、1年生の間にみんな7歳になっていく。だけど僕は入学した時から7歳。1学年遅れで学校に通い出したんです。
すぐに親父が生まれ故郷の徳島の引揚者収容所にいることがわかり、僕は入学式に1日出ただけで、徳島の板東町の小学校に転校しました。もちろんそこでも1年遅れの1年生で、中学でも高校でもずっと1年遅れのままでした。
中学では野球部に入りたかったけど、ウチが貧乏でグラブやスパイクが買えず、2年の時に部室に余っているグラブを貸してもらえることになってようやく野球部に入部できました。最初は草履を履いてやってましたよ(笑い)。それでも、中3の時の活躍が関係者の目に留まって、野球の特待生として徳島商業に入学できた。誕生日が問題になったのは、2年生でキャプテンになる前だったと思います。
野球部の部長が生年月日を聞いてきて、「昭和15年3月31日です」と答えると、「裁判所に行くから」と。このままだと2年生のうちに18歳になってしまう。そうなると高野連の決まりに引っ掛かって、3年生の時に公式戦に出られなくなるというわけです。当時は引揚者も多く、僕みたいな状況の人がたくさんいて、高野連でも問題になっていたようですね。