◆かくして「しばき隊」は結成された
野間は2013年1月30日に「レイシストをしばき隊 隊員募集」をtumblrで呼びかける。「新大久保で一般市民や近隣店舗に嫌がらせしたり暴行を働くネット右翼の邪魔をします」とし、2月9日、10日、17日の「しばき隊」活動参加者を募った。私も野間のこの呼びかけには賛同し、一瞬行こうかとは思っていたものの、仕事のことを考えるとデモ開始時刻には間に合わないことは明白だった。その代わり、こちらは記事に出す、という形で反差別の活動はしようと考えていた。野間の呼び掛け文はこう続いた。
〈さて、しばき隊の行動では、これらのデモ自体は放置します。彼らの場合、デモの前後に近隣の店(特に外国人経営店舗)や通行人に暴言を吐いたりいやがらせをしたり、ときには暴行を働く場合があります。「しばき隊」の目的は、彼らが狭い商店街でそうした行動に出た場合にいちはやく止めに入ることです。
しばき隊という名前ですが、しばきたいだけです。実際にはあくまで非暴力でお願いします。したがって武器等の携行もご遠慮ください。カウンター・デモでも抗議行動でもありません。プラカード等は持ち込まないでください。もちろんプラカードその他を使って沿道から反対の意志表示をしたい人はご自由にどうぞ。しかし「しばき隊」としては、今回はそうした抗議アクションを目的としません。抗議終了後、しばき隊に合流してください。
ご希望の方は以下までメールをいただければ、集合場所・時間等の詳細をお伝えします。〉
かくしてしばき隊は結成された。そして、2月9日が彼らの初活動日となった。同時期にプラカードを持った人々も登場し、握手する二つの手のイラストがあり、日本語と韓国語で「仲良くしようぜ」とあった。これはあくまでも融和を持ちかけるもので、罵倒を続ける差別主義者に対し「まぁまぁ」となだめるような平和的な提案である。
野間の考えとしては、差別主義者を黙らせるには乱暴な言動も必要である、というものがある。しばき隊にはガタイがよくコワモテの高橋直輝(添田充啓=後に沖縄の米軍基地建設反対運動に参加)とその他が「男組」として参加し、差別主義者の恫喝に大いに役立った。動画を見ると、男組を含めたしばき隊に囲まれ、差別主義者が本気でビビってる様は見て取れる。ネトウヨはこれを見て「1対8でダセェww」などと言うが、恫喝するのが目的なのだからやり方としては理にかなっているのだろう。こんな感じでしばき隊が恫喝・恐怖部分(実際は手を出さぬよう指示)を担い、プラカ隊が「仲良くしようぜ」の他にも「在日外国人と特別仲良くなって世界各国のめっちゃ美味しいモノを食べまくり隊」などのプラカードを掲げた。これを主導したのが現在エストニア在住の木野寿紀である。また、3月31日の新大久保における嫌韓デモでは、街頭ビジョンで「排外主義に対するメッセージ」が流された。メッセージは宇城輝人、竹田圭吾、中川敬、江川紹子、有田芳生、津田大介、五野井郁夫、小田嶋隆、宇都宮健児の9人によるもので、人種差別への批判を淡々と各人が述べていた。
基本的に排外デモ参加者は、ネットの中及び警察に守られたデモのお仲間の内にいる時だけ血気盛んである。デモが終わった瞬間、いそいそと日章旗や旭日旗をカバンにしまいこみ、各々がバラバラとなって最寄り駅へ急ぐ。そこにしばき隊が尾行でもし、ド詰めをしたらさっきまでの威勢の良さはなんだったんだ? と思うほどである。それは、ジャーナリストの安田浩一が著名ネトウヨの「ヨーゲン」の自宅を突き止めた時の状況が分かりやすい。現代ビジネスの〈ネットでヘイトスピーチを垂れ流し続ける中年ネトウヨ「ヨーゲン」(57歳)の哀しすぎる正体〉という記事がそれだ。
安田はあまりにも酷い差別発言をツイッターで繰り返すヨーゲンが、なぜそんな発言をするのか知るべく、ツイッターでやり取りをしていた。そうした中、ヨーゲンは2013年12月、「じゃ、俺と豪遊しにいこうか、全部驕ってくれる?たまには日本人にたかられるのもいいだろよ…」と安田にメッセージを送った。ここで「日本人にたかられる」とあるが、ヨーゲンは安田を在日韓国人扱いしていたのである。そして、安田は取材を重ねた末にヨーゲンの自宅住所を突き止め、2014年1月にヨーゲンの家を本当に訪れたのだ。インタホンを押したところ「帰れ!帰れ!」と言われたという。取りつくしまもないため、ツイッターでDMを送ったところ、30分後ならばいいと言われた。その時の様子を安田はツイッターでこう説明している。この時は連続ツイートをしており、数字はツイートの「●番目」を指す。「Yさん」がヨーゲンのことである。
〈【5】約束通り、30分後にYさんの自宅を再訪しました。しかし、私を待っていたのはYさんではなく、1台のパトカーと数人の警察官だったのです。〉
〈【6】私はYさんの家の前で状況を見ていたわけですが、そのとき、ドアが開いて、警察官に守られたYさんがちらりと顔をのぞかせました。なんと、Yさんは部屋の中でサングラスをかけていました。おそらく私に素顔を見られることが嫌だったのでしょう。〉
結局、ネトウヨ活動というものは安全な場所でしかできない愚行であり、いざ「敵」を目の前にするとこうして狼狽するものである。そういった意味でしばき隊を含めたカウンター勢が取った戦略は「街中でヘイトスピーチを撒き散らかす」という行為を委縮させる効果はあったといえよう。それまで在特会の活動や排外デモについて積極的に報じることが少なかった大手メディアも、カウンター出現以降、デモを批判的論調で報じるようになる。彼らは2011年、2012年のもっとも差別デモが活発だった頃は「在特会の宣伝になる」といった理由から報道を控えていた。いや、違うのである。多分「どーせバカが騒いでるだけだろう」のように問題を矮小化していたのだろう。本来はさっさとこんな日本の恥のような活動は報じ、叩いて良かったのだ。
前出の「鶴橋大虐殺」のtogetterのまとめには、その後カウンター勢力の重要人物になる者も登場している。鹿砦社がカウンターの内情を明かした書『反差別と暴力の正体』で重要プレーヤーたる「声かけリスト作成者」(詳細は同書参照)として登場するツイッターID「ITOKEN」は鶴橋の街宣の際に、こうツイートしている。
〈いまニコ生で見てるんですけど、連中のデモっていつもこんな感じなんですか?〉
排外デモをツイッターで実況することで知られる「三羽の雀」はこう答えた。
〈最近とくに酷いです。とくにこの清水は酷い〉
ここでいう「清水」は、右翼団体構成員を名乗り、前出「チョンコーチョンコー…」をマイクでがなり立てた男だ。この頃は未成年だった。三羽の雀による当時のツイッターの書き起こしによると、清水は「美しい美しい日本人をここまで怒らせてしまったのは貴方達ゴキブリ朝鮮人、在日チョンコなんですよ。~四足歩行で歩け。二足歩行で歩くな」「在日朝鮮人の人、手ぇ挙げて。息をするな。日本人の酸素吸うな。窃盗やないか。酸素が減るから死んでください」と述べていた。
ITOKENのこの感想を見ると、後に「反差別活動」にハマることになる彼にしてもまだネトウヨによる排外デモのすさまじさは把握していなかったようだ。かくして排外デモが過激さを増すにつれ、カウンターは支持を集め、これ以降のデモではデモ参加者よりもカウンターの方が人数で圧倒することが多くなっていく。
そして2013年3月14日、参議院会館にて「排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会」が行われた。この時は民主党(当時)の有田芳生議員、徳永エリ議員らが出席したほか、安田浩一、弁護士の上瀧浩子らも現状報告を行った。そして在特会による朝鮮学校の抗議活動の動画も長時間を割いて流し、ヘイトスピーチの酷さを参加者と共有した。さらにはかつてネトウヨだったという男性が、懺悔の念をスピーチするといった流れにもなった。安田は彼の顔出しスピーチを「勇気ある行動」と評した。
この集会で私は有田と名刺交換をした。すでに私のことは知っているようで、その段階でツイッターでは相互フォロー関係になっていた。つまり、私自身は明確にヘイトスピーチには反対の立場を取っており、有田との間には同じ問題意識が共有されているということになる。この日、現場には野間もいた。一応「どうも、はじめまして」と会釈をしたら無表情で軽く頭を野間は動かした。この集会の模様はメディアにも登場し、ヘイトスピーチの実態を知らしめるには良い会合になったのではないだろうか。
こうした状況を経て、朝日新聞、TBS、東京新聞、神奈川新聞等のリベラル系メディアの支持も受け、カウンターは称賛を浴びるようになる。野間はメディアの取材を受けるようになり、『「在日特権」の虚構』などの書を執筆し、正義の活動家としての注目を浴びた。ようやく「反差別」運動が日の目を浴びるようになるとともに、排外デモ・ネトウヨの愚が多くの人に知られるようになっていった。デモ参加者も減少の一途を辿る。途中、双方で逮捕者を出すなどはしていたが、2013年夏になると、カウンター勢力の優勢は明らかだった。