ネットニュース編集者・中川淳一郎氏による「ネットの反差別運動の歴史とその実態」レポート(全4回中第2回・文中一部敬称略)。
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2006年12月に在特会(在日特権を許さない市民の会)が結成され、「様々な特権を甘受する在日を許さない」といった論旨の主張を行うようになる。そこから先は「朝鮮学校襲撃」(2009年)、「カルデロン一家追放抗議」(2009年)、「尖閣諸島抗議デモ」(2010年)、「水平社博物館前差別街宣事件」(2011年)、「(反日活動をする韓国女優をCM起用した)ロート製薬襲撃」(2012年)などに繋がり、そして2013年2月の街頭における「在特会VSしばき隊を含めたカウンター」に繋がるのだ。
在特会及び「行動する保守」、そしてネトウヨの活動は竹島と従軍慰安婦を巡る日韓外交関連のニュースが増えれば増えるほど活発化する。つまり、「韓国が反日的である」という証拠を得れば得るほど嫌韓度合いが高まり、ネットで差別的なことを書く頻度が高まり、街頭での抗議活動が活発になっていくのだ。彼らがデモをする根拠であり正当性だと捉える「在日特権」の多くはデマである。「司法試験の一次試験免除」「水道代無料」「マスコミに在日枠がある」など様々だが、ネット上に転がった真偽不明の情報を繋ぎ合わせて一つの「在日は優遇されている。一方日本人は虐げられている」というストーリーを作り上げる。「嫌韓」において決定的な出来事は私は2011年以降2つあると考えている。一つが2011年の「フジテレビデモ」、そして2012年の「李明博竹島上陸&天皇への謝罪要求」である。
フジテレビデモは「フジテレビは韓国系のコンテンツを流し過ぎる」という俳優・高岡蒼甫(当時)によるツイートが発端である。結果的に高岡は所属事務所に解雇されるのだが、この時「愛国の義士・高岡を見殺しにしていいのか!」とばかりに5000人もの人がフジテレビを取り囲み、フジテレビが韓国コンテンツを流さないよう要求し、電波使用の免許取り消しを訴えたのだ。李明博の件は大統領任期切れ直前の人気取りパフォーマンスであり、なんとか退任後に自らの身を安全にしようという個人的な利益のための行動だったといえよう。この2つの件が現在の「反差別界隈」とのつながりにおいて重要なのは、一般人が明確に韓国に対する嫌悪感を示したことにある。こうした背景の中、排外デモの参加者数も増加し、開催頻度も高まり、全国各地で行われるようになっていく。
これ以前は、嫌韓については「頭のおかしいネトウヨがなんか騒いでるな」といった扱いだったのだが、この2つの件において「韓国はいい加減にしてくれ……」という感情をノンポリも抱くようになったのだ。或いはネトウヨに転向する者も増えたのだ。私もフジテレビデモは取材に行った。コラムでは自分の主観で「愚者の行進」とバッサリ切り捨てるとともに、ニュース記事としても執筆し、彼らの主張の珍妙さを紹介。多くのポータルに配信し、多数のPV(アクセス数)を獲得した。
当時はサムスンやヒュンダイが絶好調で、日本の電機メーカーや一部自動車メーカーは不調だった。しかも民主党政権下だっただけに、日本が韓国・中国に乗っ取られることを心配した者も多かったのである。これが妄想にまみれた、いわゆる「ネトウヨ脳」というものであるが、この恐怖が2ちゃんねるやツイッターでは蔓延していた。だからこそ、路上での韓国に対する罵倒はすさまじいものがあった。
毎週末のようにデモは行われ、在特会会長・桜井誠をはじめ、おなじみのメンバーが韓国・在日への罵倒のシュプレヒコールをする。「チョンコーチョンコーチョンコチョンコチョンコー」と麻原彰晃の「尊師マーチ」に登場する「ショーコーショーコーショコショコショーコー」にかけた替え歌で在日を罵る者もいた。2013年2月、大阪・鶴橋では中学生の少女が「いつまでも調子にのっとったら、南京大虐殺やなくて鶴橋大虐殺を実行しますよ!」とまで言い放ち、周囲の大人から拍手喝采を受けた。この時のデモの酷さについては、ツイッターのまとめサイトtogetterの〈【第2部】中学生の「鶴橋大虐殺」宣言に喝采を送る自称愛国日本人の絶望ヘイト街宣(2・24)〉に詳しくまとめられている。本当にどうしようもないほど酷い(https://togetter.com/li/461654)。
とにかく2012年夏から2013年春にかけ、嫌韓デモは酷かった。従業員2名の零細企業経営者である私は休日がないため、土日もPCを立ち上げて仕事をしていたのだが、毎週のようにニコ生のデモ中継をBGMとし、日々のニュース編集作業のさ中、デモ参加者の罵詈雑言をメモっては批判の材料としていた。幸いなことに私はこうした状況をニュースとして世の中に出せるだけの回路は持っていたため、「大阪の嫌韓デモで女子中学生が『鶴橋大虐殺を実行しますよ』発言」といった記事は出していた。こうした記事を出すと、当然、ネトウヨと思われる人々からの抗議は寄せられていた。