今年で歌手生活53年を迎える五木ひろし(69)。1964年にプロ歌手となり、翌年「松山まさる」の芸名で初めてのレコードを出すも、その後6年もの間ヒットに恵まれなかった。芸名を「一条英一」「三谷謙」と2度変え、銀座のクラブで弾き語りをしていた時期もある。
しかし、絶対に負けないという強靭な精神でチャレンジを繰り返し、スターの座に這い上がっていった。
「歌手に限らず、どの世界でもすべて競争です。成功した者で負けず嫌いでない人は一人もいない。この気持ちがあるからこそ、勝利を手にすることができるのではないでしょうか」(五木。以下「」内同)
自信をもって断言する五木は、なるべくしてなった天性の大スターに違いない。レコードが売れずにクラブの弾き語りで稼いでいた頃でも、月収は当時の大卒初任給の20倍近くあったというから、金銭面での悩みはなかった。
しかし五木は葛藤していた。弾き語りでは引く手あまたなのに何故レコードが売れないのか──そんな時、『全日本歌謡選手権』(日本テレビ系)を知る。10週連続オーディションに勝ち抜くとデビューできるという番組だった。