相撲ブームが沸騰している。「謎のスー女」こと尾崎しのぶ氏が、現在相撲コラムを週刊ポストで執筆中。前回に引き続きロシア出身の白露山と師匠の二十山親方(元大関・北天佑/故人)について尾崎氏が綴る。
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二十山親方の死から二週間後、北の湖部屋に移籍して七月場所の土俵に上がった白露山。気丈に「二十山親方の教えを胸に」と語ったが、その悲しみは身体を見ればわかった。十キロも減り、もともと細かった脚も筋肉が落ちきって、割り箸のようであった。成績は二勝十三敗。しかし大関・琴欧洲、前頭四枚目のパワー十分の把瑠都を下しているのだから、弔いがまったくできなかったとは私は思わない。
親方を元気づけるために勝ち続けなければと、しっかりとした治療をしなかった左膝。それをカバーするために酷使した右膝も壊れていた。前に出る、押す、といった果敢な相撲は消え、引きの動作が頻繁に見られるようになっていたが、一日も休場はしなかった。
完治させようと数場所休場すれば幕下に陥落し、無給になる。ロシア・ウラジカフカスの親族に多額の仕送りをしているからどんな内容の相撲でも十両に居座らなければ、と思ったのだろうか。
いや、白露山の化粧まわしには二十山親方の娘のデザインした丸顔の、青い瞳の虎が描かれていることを記事で読んでいた私はこう思いたい。白露山は二十山親方が一人だけ育て上げた関取である。二十山の「山」、北天佑の「佑」を持つ「白露山佑太」の名(ポール牧が命名)が番付表に十両以上の太い文字で載っていることこそが、たった十二年間ではあったが二十山部屋が存在していた証しになると彼は思っているのではないか。