ペギー葉山さんは日本歌手協会の会長まで務めた戦後日本を代表する大歌手のひとりである。4月10日、自宅で倒れ入院。診断は「肺炎」、その後容態が悪化し12日に亡くなった。享年83。これまで多くを報じられてはいないペギーさんの「最期」だが、作家・ジャーナリストの門田隆将氏が上梓した『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(小学館刊・7月24日発売)の中で克明に明かされている。
同書は、太平洋戦争のさなか、望郷と鎮魂の思いを胸に中国戦線で兵士たちが歌い継いだ『南国節』が戦後、『南国土佐を後にして』へとかたちを変え、ペギーさんによって新たな「命」を吹き込まれ、さらには『ドレミの歌』につながっていく奇跡のような実話を描いたものだ。東日本大震災で打ちひしがれた人々を、ペギーさんが歌う『ドレミの歌』が励ましていくラストシーンは感動的だ。門田氏は、生前のペギーさんほか多くの関係者に取材を行なった。
門田氏にとっても、ペギーさん急逝の報は衝撃的だった。ペギーさんはつい2週間前に越路吹雪さんの特別追悼公演で元気に歌を披露したばかり。やがて始まるコンサートに備えてリハーサルも順調にこなしていた。倒れる前日にも普通に夕食を摂っていた。
ペギーさんは朝、自宅マンションの化粧台の前でめまいを感じ倒れ込んだという。目黒区内の病院に運び込まれた。集まった所属事務所の社長や仕事仲間、親族らが目にしたのは酸素吸入マスクをつけたペギーさんの姿だった。
〈「どうも、医者がいい顔をしないのよ」
六十年以上にわたってペギーの伴奏をつとめるピアニスト、秋満義孝のもとにペギーのマネージャーからそんな電話が入ったのは、四月十日の昼のことである〉(『奇跡の歌』より。以下〈〉内同)
握った手は少し冷たかった。ペギーさんの意識はだんだん遠のいていった。11日の夜まではしゃべることができたが、それ以降は叶わなかったという。亡くなったのは12日の11時55分だった。
4月14日から始まるステージに備え、亡くなる4日前の4月8日にも一緒に練習していたという秋満義孝はこう振り返っている。
〈「これは、関東で十か所ぐらいまわらなきゃいけなくて、関西でも七月に四か所ぐらいまわるものでした。それに九月には上野の文化会館で、“歌手生活六十五周年”の記念コンサートをやることが決まっていましたからね。八月にも、帝国ホテルで、インペリアルジャズというのに出るはずだったんです。具合が悪くなったら、ひと月でもいいから、ゆっくり休んで寝ていてくれればよかったんです。それが、話ができないうちに突然、逝っちゃったんですよ。星がパーッと落ちたみたいになっちゃって…」〉
お別れ会がのちに予定されていたため、4月16日に茨城県下のお寺で営まれた密葬はごく身近な者だけで済ませた。秋満は娘とともに参列した。
お別れのときがきた。
〈そのとき、秋満は声をあげそうになった。溢れんばかりの花のなかで、ペギーは、なにかを抱くようにして、胸の前で手を組んでいた。抱いているのは、譜面である。
(ああ…)
そのとき秋満の目から涙があふれ出てきた。それは、『南国土佐を後にして』の譜面だった。秋満自身が持っていったものだ〉