「8月以降も仕事を入れていて、『どんどん仕事をやっていきたい』と言っていた矢先だっただけに、本人はさぞ無念だったのではないかと思います」(芸能関係者)
作曲家で歌手としても活躍した平尾昌晃さんが、7月21日に亡くなった。79才だった。
平尾さんは2年前に肺がんを患って闘病。その後は入退院を繰り返し、今年5月にも「息苦しい」と訴えて約1か月にわたって入院していた。一時は回復したものの、7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と、病院で検査。肺炎の疑いがあったため入院したが、亡くなる前日まで食欲も旺盛で、大好きなゴルフの全英オープンと、松居一代(60才)の騒動をテレビで見るのを楽しみにしており、「(松居には)穏便に解決してほしい」などと話していたという。
だが、21日に容体が急変し、帰らぬ人となった。その傍らには身内やスタッフとともに、最期を看取った“妻”の姿。音楽業界関係者や親しい友人らも知らなかった、その“妻”の存在が波紋を広げている。
《遺産騒動 心配の声》──7月25日付のスポニチに、そんな見出しが躍った。記事によると、平尾さんが昨年、チーフマネジャーだった50代女性のA子さんと結婚していたことがわかり、周囲が騒がしくなったという。
《数々の名曲の著作権を持つだけでなく、不動産はもちろん、さまざまに展開した事業を含めると、相当な財産を残していたはず》
その財産は、今後、A子さんと、平尾さんの3人の子供たちの間で分け合うことになる。そんな中で、《平尾さんの偉大な功績によって遺された遺産だが、それを巡ってトラブルが起きないことを多くの人が望んでいる》と平尾さんの周囲は話していると報じている。A子さんが役員を務める平尾昌晃音楽事務所はこう話す。
「遺産を巡るトラブルはありません。A子さんと息子たちの連絡も円滑で、心配するようなことは何もありません」
しかし、取材を進めていくと、たしかに家族内の“不協和音”が聞こえてきた。その話をする前に、まずは平尾さんの功績について振り返る。
◆2度の離婚と3人の子供
平尾さんは1937年、東京生まれ。小学校時代から、ラジオで英語の歌詞を覚えてしまうほど洋楽に熱中。慶應高校時代は創立間もない日本ジャズ学校に通い、ウエスタンバンドを組んで進駐軍のキャンプやジャズ喫茶で演奏した。高校を中退し、1958年に歌手デビュー。『第一回日劇ウエスタンカーニバル』に参加し、ミッキー・カーチス(79才)、山下敬二郎(享年71)とともに「ロカビリー三人男」として一大ブームを巻き起こした。
その甘いマスクと歌声から「和製プレスリー」と称され、アイドル顔負けの人気ぶりだった平尾さん。しかし、もともと肺に疾患を抱えていたことから、医師に「3年間は肺を使わないように」と告げられ、60年代半ばに作曲家に転身。すると一気にその才能が開花する。