7月18日、聖路加国際病院(東京都中央区)の名誉院長だった日野原重明さん(享年105)が逝去した。胃ろうや経管栄養などの延命治療を拒否し、自宅で家族が見守るなかでの大往生だった。
「長寿のお医者さん」として知られた彼の訃報は大きく報じられたが、本当の功績を知る人は少ない。日野原さんは1911年、山口県に生まれた。10才の頃、重病の母を治療した医師に感銘を受けて医学の道を志し、京都帝国大学医学部に入学。太平洋戦争の始まる直前の1941年に聖路加国際病院の内科医となった。
名門病院の勤務医として順風満帆だった人生が大きく変わったのは1970年。学会に出席するため羽田発福岡行の旅客機に搭乗中、爆発物を体に巻きつけた赤軍派が機内を制圧し、乗客を人質に取って北朝鮮の平壌に向かうことを求めたのだ──世にいう、『よど号ハイジャック事件』である。
犯人グループと当局による4日間にわたる攻防の末、人質は解放されたが、いつ爆弾が爆発するかもしれない状況の中で、一度は死を覚悟した日野原さんは、心のなかで決意した。
《これからの人生は与えられたもの。残りの人生は人のために使おう》
生前の日野原さんを何度も取材したジャーナリストの大西康之さんが言う。
「京大医学部出身で“白い巨塔”を生きていた日野原さんは、普通にいけば医学部の教授になって人生“上がり”だった。でもハイジャック事件を機に、自分の栄達より人のために生きることを決めました。まさに人生の一大転換でした」
日野原さんが患者のためにまず心血を注いだのが、病気を未然に防ぐことを目指す「予防医療」だった。
「“予防”という考えは当時の医学界にはまったくありませんでした。“病気を治すのが医師の仕事”と信じる人たちにとって予防医療など、商売にならず受け入れがたい。でも日野原さんは周囲の反対を気にもかけず、“予防がいちばん大事。正しく医学知識を教えれば、かなりの病気は防げる。それは患者にとっても社会にとってもいいことだ”と強く主張しました」(大西さん)
今ではすっかりおなじみの「生活習慣病」という言葉も日野原さんが発案したものだ。
「当時、高血圧や糖尿病などは『成人病』と呼ばれましたが、これでは患者は“成人になったら、かかっても仕方のない病気じゃないか”と思ってしまう。でも『生活習慣病』という名称なら、不規則な生活が高血圧や糖尿病といった病の原因となることがわかり、“生活習慣を改めよう”との意識が芽生えます。日野原さんは熱心に厚生省(当時)にかけあい、ついに病気の名称変更を実現しました」(大西さん)
撮影/雑誌協会代表取材
※女性セブン2017年8月17日号