歴史に名を残した偉人たちについて私たちが知っているのは「現役時代」のことだけ。しかしその中には、表舞台から姿を消しながら、意外な「定年後」を送った人もいる。エレキテルの復元や「土用の丑の日」を発案したことで知られる江戸時代の発明家・平賀源内(1728~1780)は、獄中死という悲しい最期だった。
「ある屋敷建設に携わった際、源内は自らの設計図が紛失したことを酒に酔っていたために仲間の大工のせいだと勘違いし、その大工を斬ってしまうのです。勘違いだと知って後悔した源内は自害を試みたものの死にきれず、その罪で入った牢獄で52年の人生を終えました」(歴史研究家の井手窪剛氏)
続いて「水戸黄門」のモデルとなった水戸藩主・徳川光圀(1628~1701)。“助さん・格さんを引き連れて全国漫遊”という話がドラマのフィクションであることは知られているが、「本物の黄門さま」はどんな晩年を迎えたのか。
「藩主を退いて隠居したのですが、重臣の謀反の企みを知るや激怒し、問答無用で斬り捨てたという逸話があります。“キレやすい暴走老人”だったようです」(歴史作家の青山誠氏)
昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』で草刈正雄が演じた真田昌幸(1547~1611)。戦国時代屈指の戦上手として知られ、真田家を存続させるために2人の息子を豊臣と徳川に振り分けるなど策略家として伝えられるが、晩年は不遇だった。
「大河でも描かれましたが、関ヶ原の後に次男の信繁(幸村)と一緒に和歌山の九度山村に流刑となった昌幸は、10年以上の極貧生活の末に無念のまま世を去ります。かなりの生活苦に参っていたようで、長男・信之に宛てた金を無心する手紙が20通以上残っています」(前出・青山氏)
※週刊ポスト2017年8月11日号