【書評】『ちゃぶ台返しの歌舞伎入門』/矢内賢二・著/新潮選書/1200円+税
【評者】池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
先年世を去った十二代團十郎から聞いたことがある。幼いころ目玉焼きが大好きで、いつも一番最後にとっておいたが、そのうち一番最初に食べることにした。ある朝、父がやにわにちゃぶ台をデングリ返したからだ。
父・十一代團十郎は海老蔵のころから、「花の海老さま」とうたわれた花形役者だった。その人が朝のちゃぶ台をすっとばすなど、何にイラ立っていたのだろう? 昭和三十年代、歌舞伎人気が底をついたころで、歌舞伎座にはカンコ鳥が鳴いていた。屋台骨を支える身として、ままならぬ世相に、カンシャクが起きたのか。大名跡を継いで三年後に死去。
矢内賢二は四十代半ばの若手芸能研究者である。不人気の名ごりをとどめたガラガラの歌舞伎座三階席で開眼。ファンにとどまらず、国立劇場に就職して、裏方のイロハを学ぶことから始めたあたりが並の学者ではない。
このところの歌舞伎大人気はめでたいかぎりだが、もともと役者の鍛練された「体」があって成り立つ芝居なのだ。その母胎が近年、長老組のほかに、團十郎、勘三郎、三津五郎をはじめとして、まさにこれからの世代があいついで急逝した。商業演劇にコマ不足が囁かれては先が思いやられる。