元靖国神社ナンバー3(禰宜)の宮澤佳廣氏が書いた『靖国神社が消える日』(小学館)が、発売早々、波紋を呼んでいる。「靖国神社は宗教法人であってはならない、国家護持として国が責任を持って英霊を祀るべきだ」「宗教法人として宮司ら一部の判断で行われたA級戦犯合祀の手続きは不適切だった」などの主張が、沈静化していた靖国問題に再び火をつけようとしているのだ。靖国神社崇敬奉賛会青年部顧問で神道学者の高森明勅氏は、この本に真っ向から噛みついた。
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宮澤氏の著書は、あくまで靖国神社の将来を憂えるという公的な問題意識で書かれたものでしょう。そこに多少、個人的な感情が混入しているように見えるのは残念ですが、著者としては将来、「靖国の公共性」が失われるのではないかと本気で心配しているのだと思います。
本書執筆の「最大の動機」は「靖国神社の国家護持という課題を再提起」することにあると、ご本人も書いています。しかしそれにしては著者が考える「国家護持」とはどのような仕組みなのか、そこへの道筋をどう見通していて、クリアすべき課題は何なのか、そうした基本的な論点についての言及がほとんどないのは、いささか不思議な気がします。
昭和40年代には、自民党が用意した靖国神社国家護持法案が繰り返し国会に提出されました。その法案を著者はどう評価しているのか。あのとき結局、法案は廃案となり、国家護持への動きは挫折した。その挫折をどうとらえているのか。それにも立ち入った検討はなされていません。どうやら著者の「動機」と本書の中身は、必ずしも整合的ではないようです。
靖国神社は今の宗教法人のままではダメだと強調しながら、「では解決法は?」となると、これまでに提出された意見を断片的に紹介してあるだけ。もちろんだからと言って、この本が無価値だということにはなりません。興味深いテーマも取り上げています。
例えば靖国神社は自衛官が「戦死」したら祀れるのか。一般にはあまり問われてこなかった実践的なテーマです。しかし、実は今の靖国神社の合祀基準では「祀れない」ことになっています。答は出ているのです。だから、その合祀基準を見直すのかどうか。見直すとしたら、靖国神社の伝統と「公共性」に照らしてどのように……といった議論になるはずです。しかし、これについても特に掘り下げた考察はなされていません。