人類史上最悪の死者6000万人という犠牲者を生んだ第二次世界大戦。だが、犠牲となったのは人間だけではない。人間以上の悲劇が生まれていたのが、動物の世界だった。戦場で出会い、深い絆で結ばれ、ともに戦った“同志”でさえも、「人間の都合」で次々に殺されていく。中国大陸に進出したある日本兵部隊と雄豹の2年6か月の物語が、人間の根源的な優しさと戦争の悲惨さを、痛いほどに伝えてくる。
【前編のあらすじ】
1941年、中国の湖北省陽新県に駐屯していた、高知出身者を中心に構成された歩兵隊、通称「鯨部隊」の成岡正久小隊長は、1匹の豹の赤ちゃんを拾って飼うこととなった。名前は「ハチ」。ハチは部隊の中で愛情を注がれ育ち、上長の亀川良夫連隊長からも「この猛獣に危険はない」として、鯨部隊への帯同も認められていたが…。
7月末に上梓されたばかりのノンフィクション『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(門田隆将著・小学館)は、鯨部隊が歌っていたという『南国土佐を後にして』という曲の数奇な運命、そしてハチと鯨部隊の交友に迫った一冊。著者・門田氏の証言を交えて、ハチの生涯を紐解く――。
1942年4月、米軍による初の本土空爆を受けた日本軍は、大規模な反転攻勢に出る。当時、米軍機の着陸地点に指定されていた中国本土の航空基地の撲滅作戦である。
鯨部隊のほぼ全兵力が動員される大規模なもので、さすがの成岡もハチの同行は不可能だと悟った。そこから成岡の奔走が始まった。郷里・高知の動物園をはじめ、大阪の動物園にハチを引き取ってもらうよう丁寧な手紙を書いたのだ。だが、どこからも引き取り手が現れない。
「理由は食糧難でした。国民が飢えている状況です。地方の動物園には、新たに肉食動物の餌を確保できる余裕がなかった」(門田氏)
諦めかけたそのとき、成岡の頭に浮かんだのは、かつて慰問公演の時にハチと触れ合った舞踊家の宮操子だった。
成岡は宮に手紙を書き、東京・上野動物公園にハチを引き取ってもらうよう働きかけをお願いした。日本を代表する舞踊家である宮の影響力を頼ったのだ。手紙を受け取った彼女は、ハチと過ごした記憶が鮮明によみがえった。すぐに知人の朝日新聞記者に連絡し、その記者を通じて上野動物公園にハチの引き取りを申し入れた。
結果は成功。当時の園長代理・福田三郎は快くハチの受け入れを決定。移送計画が迅速に作られ、同年5月、ハチは中国大陸から船で日本へと渡ることになった。その数日前、鯨部隊は航空基地の撲滅作戦のため、先に駐屯地を出発している。出発前夜の飲み会では、隊員皆で『南国土佐を後にして』を歌い、ハチとの別れを惜しんだという。