薩長藩閥が権勢を拡大した明治の日本。歴史家・八柏龍紀氏は「賊軍として長く不遇をかこちながらも、官軍権力への反骨精神をバネに近代日本の礎を築いてきた人々がいたことを忘れてはならない」と指摘する。ここでは渋沢栄一を紹介する。
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「日本資本主義の父」と言われる渋沢は、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれた。
実家は農業のほか藍玉の製造販売や養蚕などを兼業しており、幼い頃から算盤をはじいて才覚を磨く一方、四書五経をはじめとする学問にも傾倒した。
青年時代、尊皇攘夷思想に目覚めた渋沢は志士とともに高崎城の乗っ取りや横浜焼き討ちを企み、攘夷運動のため京都に乗り込みもした。今のIS(イスラム国)にも似た、血気盛んな原理主義的な若者だった。
京都に乗り込んだ際、たまたま一橋慶喜(徳川慶喜)に仕えることとなり、以後は一橋家の家政改善で頭角を現した。
渋沢の運命を大きく変えたのは1866年、主君の慶喜が15代将軍になったことだ。晴れて幕臣となった渋沢は将軍の名代に随行してパリの万国博覧会に参列し、世界を牽引する欧州諸国の勢いを肌で感じた。
ところがその頃日本では明治維新が起こり、渋沢は一転して賊軍として新政府から帰国を命じられる。帰国後、失意に暮れる渋沢は静岡で謹慎していた慶喜と面会し、逆に慶喜から「自分の道を生きよ」と諭されたという。