彼の名は、岩野響(ひびき)くん。15才の珈琲焙煎士だ。小学3年でアスペルガー症候群と診断され、中学で不登校になった。そしてこの春、高校進学はせず、自らの珈琲豆販売店を開店。「500円でも自分の力で稼げるように」──そんな両親の思いを大きく上回り、わずか2か月後には、焙煎が追いつかない爆発的人気を呼んだ。障がいを受け入れ、自立への道を切り拓く、奇跡のような家族の軌跡──。
母親の岩野久美子さん(36才)が、中学時代の響くんを振り返る。
「中学校に入学して秋くらいから、不登校になりました。そのころがいろいろと苦しく、真っ暗闇にいましたね。ひーくん(響くん)も悪気があるわけじゃないのにできないことがいっぱいあって、学校に相談しても、ご家庭の問題ですからってなってしまう。先生も友達もみんな自分のことでいっぱいいっぱいのなかで、うちの子だけわかってくださいって言うのは難しいんですよね。
何より、宿題ができないことが大問題でした。ABCって書くだけなのに、Aって書くのに5時間かかる。朝の4時5時までかかっても彼はできないんです。親が書いちゃえばいいんだよと言われても、ひーくんは真面目だし、自分でもやりたいし、それが許せない。学校の方から、白紙でもいいから、やってきた感じで列に並んで宿題を出せばいいよって言われても、それもできない。解決策がないんです。絶対に不可能なことをどうにかしようとしていた時期は苦しかったですね。ひーくんもチック症状や頻尿になってしまっていました。
それで一度普通の学校から離れて、不登校の子供たちが通う施設に通い始めたんです。でも、そこでも文字を書く作業はあるわけですよ。どんなに支援してもらっても『できない』は変わらない。ひーくんも落ち込んで、この先どうしていったらいいんだろうっていうのはすごく悩みましたよね」
その時の気持ちを響くんに尋ねると、穏やかな笑みをたたえてこう言った。
「まあ毎日が大変だったなというのはあります。お父さんが休みなよって言ってくれなかったら、今もずっと学校に行っていたと思います」
久美子さんの夫である開人(はるひと)さん(38才)も続ける。
「とにかく真面目なんですよ。誰かがもういいんじゃないかって止めてあげないと、このまま多分、学校に行き続けるだろうし、行き続けたら心が壊れるなって思ったんです。でも結果として、ぼくが本当の意味で障がいを受け入れられた気がします。どうしても学校にいると、はみでた響をどうにか中に入れようとする教育になっていたんだなって。響から学ばせてもらいました」
「それからは主人の染め(編集部注・職業として、開人さんは染色を、久美子さんは洋服を作っている)を手伝ったり、家のことを手伝ってもらったり。サポートすればできるようになると思って、一緒に、少しずつできることを増やしていきました」(久美子さん)