西郷隆盛はなぜ自らが朝鮮に渡ることに固執し、「征韓論政変」を引き起こしたのか。これは、明治6年、西郷隆盛の朝鮮使節派遣を巡り新政府内で意見が対立し、西郷や板垣退助らの政府首脳と、軍人や官僚約600人が辞職・下野した件だ。そこには西郷の体調が大きく影響している、と大阪経済大学客員教授の家近良樹氏は言う。西郷は肥満をはじめとするさまざまな疾病を抱えていた。その病を辿ると、従来の認識とは違った西郷像と政変が見えてくる。家近教授が解説する。
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西郷の体調悪化は明治維新の趨勢にも少なからず関与したと考えられる。最大のケースが、明治期最大の政変と呼ばれる「征韓論政変」(明治6年)だ。
この時の西郷の言動には不可解な点が多く、明治期最大の謎のひとつとされるが、「心身の異常」という観点から得られる知見は多い。
明治6年7月29日、西郷は板垣退助に宛てて、朝鮮使節を志願する手紙を送った。それ以前の西郷には、新政府内でくすぶっていた朝鮮問題解決に向けての積極的な姿勢は見られず、周囲は突然の志願に驚く。
実は朝鮮使節を志願する前の5月、西郷は持病の「激しい胸痛」が悪化して大侍医(宮中内の医療を担当する宮内省の医師)に「中風」の危険があると診断された。これを案じた明治天皇がドイツ人医師ホフマンを彼のもとに送り、肥満解消のための瀉薬(下剤)療法と食事制限が始まった。この結果、1日5、6度の下痢に悩まされるようになった。