【書評】『千の扉』/柴崎友香・著/中央公論新社/1600円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
昭和のなつかしい風景が都市開発の陰に埋もれつつある。『千の扉』で作者は、新宿区牛込辺りに実在するマンモス都営団地をモデルにしたという。築四十年以上、三十五棟、三千戸もの部屋があり、七千人近い人々が住んでいる。
ここで新婚生活を始めることになった大阪出身、三十九歳の女性「千歳」を中心として、団地の住人、かつての住人、住むに至らなかった者、住人たちと触れあった者、団地でヒーローものの撮影をした俳優、広大な団地のどこかに消えていった盗人などなど、数々の人生が断片的に語られていく。
夫の「一俊」は仕事の忘年会で千歳と軽く話をしただけで、求婚してきた風変りな男。結婚が決まった頃、都営団地に暮らす彼の祖父「勝男」が入院し、新婚夫婦がその四〇一号室に住むことになったのだった。千歳は勝男から奇妙な人捜しを頼まれる。
柴崎友香の自由な視点は健在で、千歳の目で何かが語られていたかと思うと、急に千歳の知りようがない、夫が子どもの頃の話に飛んだりする。そのせいか、全編にどこか夢うつつの感触がある。たとえば、一俊が中学生の頃、友人と夜中に部屋を抜け出して、団地の築山に登ったときのこと。彼らは、悠然と歩く一匹の豹と、黒ずくめの男たちを見る。
あるいは、作中の人々は折々にこんな風に思う。「映画かドラマで見た場面を、自分の記憶と勘違いしている」のかもしれない、あれは「幻だったんじゃないかって思うね」、自分を「知らない人のようだ」とも。千歳もつねに現実感や人間関係の実感が希薄で、テレビドラマを見ているようなものだと言う。しかしこれは、生きる実感を得にくい現代の都市生活者に共通の感覚ではないだろうか。
団地には、どこかに通じる秘密のトンネルがあると実(まこと)しやかに囁かれている。柴崎友香はこの幻のトンネルに出入りできるのだ。だから、トンネルを自在にくぐり、時空を超えて物語を紡いでいける。勝男祖父ちゃんの恋物語が全体をやさしく包んでいる。
※週刊ポスト2017年12月8日号