【書評】『保科正之』/小池進・著/吉川弘文館/2300円+税
【評者】山内昌之(明治大学特任教授)
保科正之は三代将軍家光の庶弟として、甥の四代家綱の治世を補佐した名宰相である。すでに作家の中村彰彦氏は正之の事績や逸話について好著をいくつか出している。しかし、学界レベルでは正之の研究は乏しかった。今回著者によって、正之は、家光在世中に幕府行政へ関与した形跡はなく、家綱将軍襲職後に家光の「託孤の命」により、老中の上にあって重要な幕議に参画したことが確認された。
家康の孫だけに、なかなかに強い個性と意志力の持ち主だったことは史料を通して伝わってくる。たとえば、朱子学と神道について並の学者も及ばぬ造詣をもつ正之は、山鹿素行が朱子学を実生活の役に立たぬ机上の空論と批判したことを許せず、激しい言葉で素行を糾弾し赤穂に流罪処分とした。
武家諸法度の改定に際しても、殉死の禁を明文化するように厳しく主張し、主君への忠義の発露でもある殉死を文章で禁じるのはいかがなものかという反論に遭っている。しかし老中阿部忠秋あたりの慎重な議論を聴くうちに、禁を口頭伝達することで妥協したあたりに、政治家として成熟した人格を感じるのだ。著者は、大老職にも後見型大老や執事系大老と、元老型大老と三種あり、正之はさしずめ後見型だと位置づける。
家綱は何かにつけて将軍名代の役割を正之に命じ、老いて目が不自由になっても正之を傍から手放そうとせず、病状が悪化すると事あるごとに近臣に正之の様子を尋ねたものだ。家綱が心優しい将軍だったことは、おそらく唯一の叔父正之の補導よろしきを得た点と無縁ではない。
台所口まで輿に乗ることを許し、隠居後は羽織での登城苦しからずと気配りの数々なのだ。正之は実父秀忠との縁は薄かったが、兄家光と甥家綱の引き立てによって会津23万石の大大名となり、子孫に有名な「家訓十五条」を残す。幕末の会津松平家の愚直なまでの徳川宗家への忠誠心の根拠となった戒めである。京都守護職や白虎隊の淵源を学問的に知る上でも頼りになる書物といえよう。
※週刊ポスト2017年12月15日号