1月4日に楽天の星野仙一球団副会長がすい臓がんで亡くなったことがわかった。70歳だった。星野氏は1968年秋のドラフトで中日から1位指名を受け、入団1年目から8勝を挙げた。1973年からは5年連続2ケタ勝利をマークするなど中日のエースとして活躍。通算146勝は山本昌広(後に山本昌)、杉下茂に次ぐ球団3位の記録である。
1982年限りで現役を退くと、NHK解説者を経て1986年オフに中日の監督に就任。その直後にパ・リーグで2年連続三冠王に輝いた落合博満を1対4の交換トレードで獲得。2年連続Bクラスに終わっていたチームに喝を入れ、就任2年目の1988年には悲願のリーグ優勝を果たした。星野監督は若手を育てることに長けており、この年はPL学園から入団した高卒ルーキーの立浪和義をショートに抜擢。21歳の中村武志を正捕手に登用した。野球担当記者が話す。
「当時がそういう時代だったということもありますが、星野氏の中日監督時代といえば、“鉄拳制裁”が思い浮かびます。特に中村は何度となく鉄拳を食らっていたし、他の選手も文字通り痛い目に頻繁に遭っています。それなのに、星野監督の悪口を言う選手は聞いたことがない。それどころか、未だに慕っている選手ばかりなんです」
優勝した1988年のシーズン終盤、スクリューボールを武器にチームの救世主となった山本昌広は自著『133キロ快速球』でこう語っている。
〈星野監督は僕を怒って一人前にしてくれた。どれだけ怒っても、最後は使ってくれた(中略)野球選手にとって、これに勝るフォローは存在しないのだ〉
1年目から起用され、1994年には本塁打王と打点王を獲得した大豊泰昭も自著『大豊』こう記している。
〈星野監督は言ったことを守る人だ。選手を叱っても必ずそのあとにチャンスをくれる〉
高卒2年目の1990年にローテーション入りし、以降、中日のエースとして活躍した今中慎二も同じことを感じていた。自著の中でこう記している。
〈当時の若い選手が星野監督の厳しい指導についていけたのは、どんなに怒鳴られてもまた試合に出してもらえるという期待感があったから、といえます〉(『中日ドラゴンズ論』より)
どんなに厳しくされても、愛情があったからこそ、選手はついてきた。数々の名選手を育てた闘将の死はあまりに早過ぎる。