“花の”と冠が付くほど隆盛を極めた1982年デビュー組のアイドルたち。中森明菜『少女A』の作詞家・売野雅勇、『ザ・ベストテン』司会者・松下賢次、著述家・太田省一の3氏が、あの時代と「花の82年組」を振り返る。
売野:1970年代の重厚感溢れる歌から、80年代は軽さが求められるようになりました。象徴的な歌が、1980年1月1日発売である沢田研二さんの『TOKIO』。ジュリーの作品を書いてきた阿久悠さんではなく、コピーライターの糸井重里さんが担当したことで、詞が軽くなった。生活感の希薄さがポイントでした。
太田:1979年の終わりから1980年の始めは、ちょうど阿久さんの休筆期間中でもありましたね。
売野:さらにその源流は、1979年のYMOの曲『テクノポリス』。冒頭で「TOKIO」と囁いています。ニューヨーク、ロンドン、パリという世界のメトロポリスの中で、東京を「TOKIO」と位置づけた。
確かに、僕がファッション誌に関わっていた1970年代後半、DCブランドがどんどん増え、同時に建設ラッシュで街の風景も変わっていき、東京が流行の発信源になっていました。
沢田さんの『TOKIO』以降、レコード会社は広告の仕事に関わっている書き手を探すようになり、僕にも声が掛かりました。コピーライターはまず枠組みを考えるので、企画的な歌が増えた。その流れが、1980年代のアイドルブームを決定づけたと思います。