石牟礼さんの手紙が美智子さまの「お忍び対面」を実現させた
水俣病患者やその家族の言葉にならない苦しみを代弁し続けた作家・石牟礼道子さんが、2月10日、パーキンソン病による急性増悪のため90才でこの世を去った。1927年に現在の熊本県天草市に生まれ、すぐに同県水俣市に移り住んだ。これが、石牟礼さんが執筆活動に生涯をかけるきっかけとなった。
1956年に水俣病が公式に確認されると、原因企業であるチッソとの患者の闘争を支援し、1969年に著した『苦海浄土 わが水俣病』で大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれながらも、「まだ苦しんでいる患者がいる」と受賞を辞退した。
戦後の高度経済成長期、国策を担ったチッソが発生させたメチル水銀による公害と、皇室の立ち位置は非常にデリケートなものだった。加えて、雅子さまの母方の祖父が同社の会長を務めたことも、事態を複雑にした。それが2013年7月、大きな転機を迎えることになる。
「2006年に亡くなった社会学者の鶴見和子さんを偲ぶ会で、石牟礼さんは美智子さまと対面しました。病気の影響で手が震えてしまう石牟礼さんのため、美智子さまは“これ、おいしいわよ”と料理を取り分けられたそうです。その時、帰路につかれようとする美智子さまから、“今度、水俣に行きます”と告げられたそうです」(皇室記者)
それからわずか3か月後、両陛下は水俣の地を踏まれ、水俣病患者の慰霊碑に白菊を手向けられた。
実はその訪問時、両陛下はお忍びで胎児性水俣病患者との面会を果たされた。母親のお腹の中でメチル水銀に侵され、生まれながらに障害を負った人々のことだ。
「その面会を実現させたのが、他でもない石牟礼さんでした。偲ぶ会での対面後、石牟礼さんは美智子さまに手紙で“今も認定されない潜在患者のかたがたは苦しんでいます。50才を超えてもあどけない顔の胎児性患者たちに会ってやってくださいませ”と訴えかけました。それを受けて、美智子さまは熊本への出発直前、予定になかった胎児性患者との面会を急きょ希望されたそうです」(前出・皇室記者)
ある宮内庁関係者が明かす。
「美智子さまは、人ではなく、その人の成し遂げようとしていることに目を向けられます。ただひたむきに自分のすべきことに邁進する石牟礼さんを、美智子さまは心から後押しされていました」
美智子さまは、困難に向き合う人々に励ましの声をかけ続けてこられた。同じ矜持をもった石牟礼さんのいる天国に向かって、心からの感謝を伝えられていることだろう。
※女性セブン2018年3月1日号