【書評】『生の肯定』/町田康・著/毎日新聞出版/1600円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
『どつぼ超然』『この世のメドレー』に続く三部作完結編である。精神の旅路、魂の苦闘の果てには、なにが待ち受けているのか。
町田康が死闘を繰り広げてきた相手とはなにか。ひとつは、「恥」である。恥の意識。これを持たぬものを斬る。人でも物でも斬る。太宰治は「注文通りの景色」を見せる絶景の富士山を恥ずかしいと書いたが、町田康は「なに爽やかに澄み渡っとんね」と、含羞のない青空に唾を吐く。人間、油断すると、たちまちこの無恥エリアに足を踏み入れてしまう。昨今のインスタグラムやfacebookを見よ。嵩ましのリア充自慢で目がつぶれそう。
さて、本三部作の前二編で、主人公は恥にまみれぬよう、まず「飄然と生きる」というコンセプトを導入、そこから「超然者」へと移った。そして凄絶な闘いにより死に瀕した後、「余」は超然者のタイトルを打ち捨てる。では、次の本作『生の肯定』で目指すものとは? 「自然者」である。
超然者とは早い話、上から目線の虚無主義者だった。なので、もっと素直に、自分の気持ちを表現し行動することにした。すると、五万円の鍋を持ってるよんとか、西麻布の飲食店オーナーと友だちだとか、自慢がたらたらと溢れだす。この恥ずかしさを「発狂」の末に丸呑みにしてこそ、人は生に向かうのであり、「生の肯定」ができるのだという。自慢などというものは、命のひとつも賭けてからやれ、と。