日本国憲法の改正論議がじわりと進み始めている。憲法改正と言えば「九条」が頭に思い浮かぶが、評論家の呉智英氏は、改憲派・護憲派ともに見落としている点があると指摘する。
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新聞紙面に憲法論議が出る時期になってきた。五月三日憲法記念日を二ヶ月ほど後に控えているからだ。三月二日付け朝日新聞に哲学者の國分功一郎が「言葉が失墜 『物語』なき憲法論」と題して、こんなことを書いている。
「憲法というのは高度に専門的・技術的であって、素人が容易に口出しできるものではない。ところが、戦後日本の憲法学を牽引してきた学者たちの言葉は」「どこか文学的だった」。それは憲法が「何らかの物語を必要とするからだ」。現在「憲法論議が盛ん」なように見えるが、それは「憲法を支えてきた物語が理解されなくなった」からだ。
哲学者のおっしゃることは「高度に専門的」でよく分からぬが、憲法の理念を支える歴史が理解されなくなっている、ということらしい。確かにStory(物語)とHistory(歴史)は同原だ。
しかし、私は憲法論議には「専門的・技術的な論議」こそが重要だと思う。法治社会では法はきわめて体系的かつメカニカルに構築されているからである。
憲法論議でいつも争点になっているのは第九条(戦争放棄、交戦権否認)である。これは改憲派(再軍備派)・護憲派(非武装派)とも同じである。しかし、賛否は別にして軍備について考えるなら、第九条だけではなく、第七十六条二項にも思いを致さなければならない。極言すると、これを改正しなければ軍隊なんて保持できないし戦争なんてできないのだ。