NHK大河ドラマ『西郷どん』の主人公・西郷隆盛。維新の立役者でありながら、後に明治政府に反旗を翻した悲劇の英雄、というのが一般的な西郷像だろう。しかし、写真が一枚も残っていないなど、その実像は謎が多い。歴史作家の島崎晋氏が、晩年の西郷の知られざるエピソードを紹介する。
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西郷隆盛は新政府の重鎮ではあったが、外交方針の違いから政府内で孤立して、明治六年(一八七三)に下野(げや)していた。それからは鹿児島に戻り、後進の育成に専念していたが、士族の特権が次々と剥奪され、各地で士族による反乱が相次ぎ、鹿児島でも新政府への不満が高まる状況下の明治一〇年(一八七七)二月、我慢の限界を超えた強硬派に擁立され、反乱に踏み切ったのだった。これを西南戦争という。
西郷隆盛はこのとき五一歳。人望篤く、実戦経験も豊富なだけに、新政府からもっとも危険視されていた。参加した士族の多くも戊辰戦争を経験しており、そんな彼らの地元である鹿児島で反乱が勃発したのだから、天下を覆しかねない一大事に違いなかった。
ところが、案に相違して、反乱軍の快進撃は長くは続かず、熊本城さえ陥落させることができなかった。ぐずぐずしているところへ、徴兵された兵士からなる征討軍(反乱軍はこれを東軍と呼んだ)が到着。田原坂(たばるざか)の戦いに敗れてからの反乱軍は押されるいっぽうで、同年九月二四日、西郷隆盛が鹿児島の城山(しろやま)で自刃したことにより、西南戦争は終わりを告げた。
倒幕の戦いで主力を担った薩摩の勇士たちが、士族ではない者たちからなる征討軍に敗れた。時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、実は西南戦争の全局面を通じて、西郷隆盛自身が精彩を欠いていた。
敗北を承知のうえで頭領を引き受けたとはいえ、本来の実力を存分に発揮していれば、もっと長く戦えたはず。それができなかったのは、西郷の健康状態に起因していた。
いつからかははっきりしないが、西郷は象皮病という九州南部に多い風土病に悩まされていた。寄生虫による病気で、感染すると皮膚が腫れ上がったうえ、象のそれのようにざらざらになる。これに感染した西郷は陰嚢(いんのう)が肥大化して、一人で歩くことさえままならない状態にあった。西郷隆盛は一枚として写真を残していないことでも知られており、そのため遺体の確認も肥大化した陰嚢が決め手となったのだった。
※島崎晋・著『ざんねんな日本史』(小学館新書)より一部抜粋
【プロフィール】しまざき・すすむ/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。著書に『日本の十大合戦 歴史を変えた名将の「戦略」』(青春新書)、『一気に同時読み!世界史までわかる日本史』(SB新書)、『知られざる江戸時代中期200年の秘密』(じっぴコンパクト新書)など多数。