「舞台女優を目指して東京で頑張っていた20才の頃、母のもの忘れが激しくなり、帰郷のたびに病院を渡り歩きました」と語るのは、フリーアナウンサーの岩佐まりさん(34才)。
当時は認知症が今ほど一般に知られておらず、専門医も少なかった。戸惑ううちに時が過ぎ、ついにアルツハイマー型認知症の診断が下ったのは、まりさんが25才、母・桂子さんが60才のときだった。
「当時、目にする認知症の情報は絶望的なものばかり。最後は必ず介護が必要になると。ちょうど舞台の仕事が少しずつ入るようになっていたのですが、大切な仕事中に実家から頻繁に電話がかかり、切羽詰まった心境になりました」
さらにつらかったのは、身近な友人に話せなかったこと。
「同年代の友達の話題は彼氏や結婚のことで、認知症という言葉を知らない人がほとんど。とても相談などできず、孤独でした。それでも東京に留まり、夢と介護の不安を抱えて身動きが取れないまま、20代は過ぎていきました。人生でいちばんつらい時期でした」
26才のとき、今や人気ブログとなった『若年性アルツハイマーの母と生きる』を開始。
「書くだけでも気が楽になりましたが、同じく介護している人がコメントをくださると心強く、吹っ切れた心持ちになって視野も広がりました。私が30才になる年、母を私の家に呼び寄せ、在宅介護に踏み切ることにしました」
地域包括支援センターでケアマネジャーを紹介してもらい、仕事と両立できるケアプランを設計。介護する家族が集まる家族会にも参加した。
「行ってみると楽しくて、何より同じ地域で介護をするご家族からの情報が有益でした。医療費の助成もある精神障害者健康福祉手帳や、自治体で給付されるタクシー券などの情報のおかげで、かなりコストダウンもできました」
それでも桂子さんの認知症は進み、今は会話も難しく、車いす生活に。現在、要介護4。最近は介護度の高い家族の介護離職も社会問題になっているが…。
「うちの場合は母の年金も少なく、私が働かなければ介護もできません。たまの休日、丸1日介護だけをしていると、楽な半面、社会と隔離されるような不安もよぎります。地道に工夫して、好きな仕事を続けざるを得ない状況が、むしろよかったなと。信頼するケアマネさんや介護友達に助けられ、何とか生活が回っていることを幸せに思います。
時折、母が『いい人いないのかな』などと、壁に向かって独り言をつぶやくんですよ。心の奥で私を心配する親心にも支えられていますね。目下の目標は、もう少し長時間、仕事ができる態勢にすること。そして結婚もして、母のそばで赤ちゃんを抱く自分を夢見ています」
※女性セブン2018年4月19日号