しきたりや伝統として行われていることには、いつの間にかそうなっていたものもあれば、宗教的な理由によって続いているものもある。評論家の呉智英氏が、現代社会の論理とは相容れない宗教と相撲について考察する。
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三月九日号の週刊ポストで角界の「女人禁制」を論じたばかりだが、大相撲春巡業でまたこの問題が起きた。
四月四日舞鶴市の巡業で土俵上であいさつ中の多々見良三市長が突然倒れ、客席にいた看護婦(俗に言う看護師)らが緊急救命処置のため土俵に上がったところ、場内放送で土俵から下りるように指示があった。市長はくも膜下出血だった。しかも、救命処置をした看護婦らが土俵を下りた後、土俵に清めの塩がまかれた。
これについて日本相撲協会は「人命にかかわる状況では不適切な対応」と謝罪する一方、清めの塩については「骨折やけががあった際の通例であり、女性が土俵に上がったことは無関係」と苦しい言いわけをしている。
二日後の四月六日宝塚市の巡業では、中川智子市長があいさつを土俵下でするよう要請され、それに従ったものの「女性差別」だとして「変革する勇気」を訴えた。
前も述べたように、相撲は近代スポーツではなく、宗教に基づく祭事である。宗教内の論理は宗教外の論理としばしば背馳し、しかもこれを説得することは不可能なのである。
我々は誰でも健康を望む。それ故健康増進のための啓発や教育が行なわれる。これによって、不健康な生活をしていた人はそれを改めるだろう。改めることができない人でも、改めた方がいいだろうと説得はされるだろう。