織田信長は49歳にして本能寺の変で死ぬ間際に「人間五十年~」と、“人の世の50年なんて夢幻のようだ”と舞ったとされるが、実際にはその歳まで生きる人は稀だった。そんな時代に50歳を超えてから歴史に名を残した偉人たちがいる。
フランス印象派のモネ、ゴッホらに影響を与えたといわれる江戸時代の天才絵師、葛飾北斎(1760~1849)も世に認められたのは遅かった。
「若い頃から絵師として描き続けていましたが、積み上げてきた実力がようやく結実し日の目を見たのは、54歳の時に発行された『北斎漫画』でした。代表作と名高い『冨嶽三十六景』を描き上げたのは73歳の時。北斎自身も絵手本『冨嶽百景』の序文で、“6歳から絵筆をもつようになったが、70歳以前の自分は取るに足らない”と書いています」(歴史作家の山村竜也氏)
言葉通り、88歳で亡くなるまで作品を描き続けた。
世間に認められたのは死んでから、という例が西洋医学の解剖書「ターヘル・アナトミア」を杉田玄白らと翻訳した江戸中期の蘭学者・前野良沢(1723~1803)だ。前野は21歳で蘭学を志したが、解剖学の世界に身を投じたのは40歳を超えてからだった。
「52歳の時に杉田玄白らと共に『解体新書』を完成させましたが、そこに前野の名はありませんでした。一説には、成果を早く世に出そうとした杉田に対し、前野はプロとしてより翻訳の完成度の高いものにこだわっていたとされています。このため存命中には『解体新書』の著者として知られることはありませんでした」(歴史研究家の井手窪剛氏)
前野の名がようやく世に刻まれたのは、没後12年経ってから杉田玄白が記した回想録『蘭学事始』によってであった。
※週刊ポスト2018年4月27日号