西洋料理の伝播とともにヨーロッパから輸入された金属洋食器は、新潟県燕市の地場産業として発展。今では全国生産シェアの90%以上を誇る同市で、その歴史を辿る。新潟県のほぼ中央に位置する燕市は、金属産業が古くから盛んなところ。
江戸時代初期に、市内を流れる信濃川の度重なる洪水によって、困窮した農民を救済するための副業として、和釘作りが始まり、それ以降、キセル、ヤスリなど、金属製品が盛んに作られるようになった。明治以降になると、外国からの輸入が増え、和釘製造は衰退。そんな危機的な状況を救ったのが、洋食器メーカー『燕物産』の八代目・捧吉右衛門だ。
「私の祖父である吉右衛門が、明治40年に上京した時、銀座の洋食器屋『十一屋商店』の店先に飾られていたスプーンとフォークを目にし、燕の産業になってくれればと、考えたのがきっかけです。当時は、外国からの輸入に頼っていた金属洋食器ですが、洋食文化の広がりとともに、需要が高まると考えた吉右衛門は、国産化に努めるようになったのです」(燕物産代表の捧和雄さん・以下同)
明治44年には、金属加工技術が認められ、十一屋商店から金属洋食器の注文を受ける。これが日本の金属洋食器の発祥となり、燕市は洋食器の町として発展していく。
「この時の成功を境に、本格的に洋食器を製造するようになりました。そして、大正初期には日本製の洋食器『月桂樹』が誕生。フォークやナイフはフランスから渡ってきた文化なので、デザインはロココ調ですが、持ち手の部分に月桂樹と稲穂をデザインしているため、『月桂樹』と名付けられたのです」
重厚感のあるデザインに加え、使い心地がよいのも燕の食器の特徴だが、とりわけ、ナイフには大きなこだわりがあり、当時、切れ味をよくするために、岐阜県関市の刃物職人から技術を学んだと伝えられている。
今でもスプーンとフォークは同じ職人が手がけているが、ナイフ作りは専門の職人が行っている。
「ナイフは焼き入れを行い、切れ味がいいように刃を作りますから、その部分の材料はかえています。刀先はステンレス鋼を、持ち手部分はニッケルシルバーなどを使っています。これらの異素材を熔接して、1つにしています」
そのため、燕のナイフは肉でもスーッと切れ、持ち手も日本人の手にしっくりくる形状になっている。持ち手1つとっても、職人技が生きている。
※女性セブン2018年5月3日号