撮影した女優の数、なんと5万人以上。1946年、26歳から写真家として活動を開始してから2003年に急逝するまで、秋山庄太郎は女性ポートレートを中心に撮影を続けた。一時は小誌・週刊ポストをはじめ18誌もの雑誌の表紙を担当。「讃婦人科」の異名をとった、戦後を代表する写真家の作品を振り返る。
秋山の写真家としての原点は女優・原節子だった。秋山の原に捧げる特別な想いは、多数の著書から窺うことができる。
「原節子に恋をした。彼女は16歳。僕も16歳。出会いは日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(昭和10年)。こんなに美しい人が、本当に存在するんだろうか」(書籍からの引用)
秋山は原を撮りたい一心から近代映画社に入社。熱意が天に通じたのか、大船の撮影所に通う電車に偶然彼女と乗り合わせ、気に入られるという幸運を得る。写真嫌いの原から自宅での撮影許可をもらい周囲を驚かせた。その後は“原節子番”として活躍、引退後も親しく電話で話す仲だった。晩年、被写体としての彼女を「とてもシャイなんです。撮影しづらかったけど、その分、被写体の本当の美しさを探し出すってことを教えられましたね」と語っている。
(文中一部敬称略)
※週刊ポスト2018年5月4・11日号