もう少しで平成が終わろうとしている今、昭和30年代の人、物、暮らしを映した群馬県・桐生市の齋藤利江さん(78才)の写真が、多くの人の目と心をわしづかみにしている。写真家になる夢を抱き、夢中でシャッターを切っていた10代の写真は、長い間、父に捨てられたと思って恨んでいたが、還暦になった年、偶然見つけたクッキーの缶に、往時のネガがびっしりと詰まっていた。そして、そこに、父の思いと昭和の現身が再び現れた──。“オバ記者”こと野原広子が、齋藤さんともに、当時の写真を見ながらその魅力に迫る。
オバ:そもそも、齋藤さんとカメラの出合いは? 私は齋藤さんより18才年下だけど近所にカメラを持っている大人なんて1人もいなかったし、10代の女の子が持ち歩く? ありえない!
齋藤さん:わが家は、私の上の子も下の子も早くに亡くなって、私1人が生き残ったの。昭和14年、戦争の足音が忍び寄っているときに生まれたから、父親がこの子に何か残してあげたいと思い、私の写真を撮り出したんだって。まず父がカメラにハマったわけ。
オバ:お父さんの職業は?
齋藤さん:桐生は織物の町。父は、今でいえば繊維問屋かしら。桐生の織屋さんから布地を集めて、東京のデパートなどにセールスをする仕事をしていました。そのとき、織物の見本を切って見せるより、写真という手があると思いついたのね。
私は生まれたときから、父親にあっち向け、こっち向け、洋服買ってきたからカメラの前に立てって。ただ撮られているのもつまんないから、父が見ていないすきにパチパチ撮って、現像したら「あれ? おれが撮っていない写真がある」(笑い)。しかも父の写真より構図がいい。
オバ:初めてのカメラはどんな?
齋藤さん:蛇腹カメラでしたが、すぐに最新型のオリンパスワイドになりました。父は新商品を買いたい。遠出して撮影会にも参加したい。私はそのダシに使われているうちにカメラのとりこになったの。家に6畳の現像室があって、この写真はすべて家で父が現像したものです。
◆「西の西陣、東の桐生」の繊維の町の豊かさ
オバ:それにしても、昭和30年代の桐生は豊かだったんですね。子供たちを見ても、みんな身なりがいい。昭和40年の夏、茨城でお下がりのシュミーズで遊んでいた私とは大違い。
齋藤さん:繊維業は軍需産業でもあるの。パラシュートやリュック、軍服など、布物が大量に消費されるから、最盛期は大正から昭和初期。芸者さんが町に170人くらいいたそうです。今は1人もいないけど。