笹川陽平・日本財団会長のハンセン病制圧の旅に7年にわたって同行取材した『宿命の戦記 笹川陽平、ハンセン病制圧の記録』。著者・高山文彦氏と原武史・放送大学教授が「ハンセン病と皇室」について語り合う対談「人類史の暗黒に光を当てる──高山文彦『宿命の戦記』をめぐって」の第2回では、皇室が国内のハンセン病ケアを独占していった「歪み」が俎上に上がった。
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原:実は皇室もいろいろでしてね。先ほど話に出た高松宮夫妻は当時であっても、施設の前を通過だけした皇太后節子(貞明皇后)とは違う振る舞いをしている。皇太后が多磨全生園の前を通り過ぎた一日前に当たる1948(昭和23)年6月2日には、鹿児島県鹿屋市の星塚敬愛園を訪れ、白衣もマスクもつけずに患者の一人ひとりと握手を交わしています。
当時は政府がまだ隔離政策をとって、ハンセン病は「うつる病気」だと喧伝していた時期でしょう? それをまったく無視して、自身の判断で至近距離まで行き、患者を直接励ましているんです。しかも当時は占領期だから、高松宮は摂政になる可能性もあったんですよ。
高山:ああ、そうか。
原:昭和天皇が仮に退位した場合は、皇太子は未成年ですから摂政を立てる必要が出てくる。その場合、次弟の秩父宮は当時結核で療養中だから、三男の高松宮が摂政になる可能性が高く、そのことは本人も当然知っていた。知っていながら、母親とはまったく違う態度を取っているわけです。
高松宮は日記も残っているし、なかなかの人物なんです。時には昭和天皇にもズケズケ物を言い、猛烈に頭がキレた。逆にその賢さゆえにGHQから危険視されたくらいで、日本国憲法のもとになる新憲法草案のことも「君主制の否定だ」と批判したりしてね。
高山:太平洋戦争に関しても、彼は昭和天皇に「早くこんな戦いはやめろ」って言ってますよね。ものすごく強い言い方で。
原:そして結果的には高松宮が正しかった。戦死者の多くはサイパン陥落後に集中しています。その時点で彼の意見を聞いていれば、東京大空襲も沖縄戦も広島・長崎への原爆投下もなかったんです。ところが昭和天皇はどこかで一度勝たなければダメだと言って、弟を無視してしまうんですね。
高山:その判断には母・貞明皇后の影響もあったんでしょうか?
原:あったと思います。この三兄弟にはやはり母親との距離感の問題があって、昭和天皇はそれを最も意識せざるを得ない立場にあった。貞明皇后はとくに秩父宮を溺愛していたと言われますが、秩父宮自身はわりあい母親の言動を冷めた目で見ていて、さらに末っ子の高松宮の場合は、あ、この母親、何かおかしいぞという視線が、明らかに見て取れるんです。
高山:その母親の意向を、昭和天皇は「忖度」した部分があったと?
原:昭和天皇はその実、母親を恐れていたと思います。長男にはとくに祭祀に関して苦言を呈した貞明皇后も、結婚相手を自分が選んだ次男や三男には態度が甘く、長男夫婦が天皇・皇后となったあとも、秩父宮妃や高松宮妃とは大宮御所で頻繁に会っている。
逆に妻たちも大宮御所に行くことで皇太后の近況を報告している。たとえば空襲が激化しつつあった1945(昭和20)年の1月、高松宮妃が帰ってきて、皇太后が「ドンナニ人ガ死ンデモ最後マデ生キテ神様ニ祈ル心デアル」と言っていると高松宮に報告しています。
高山:へえ~。
原:それを聞いた高松宮が驚愕する場面が彼の日記に全部書いてあります。その9日後には内大臣の木戸幸一も「戦争に対する大宮様〔皇太后〕の御心境」を「極めて機微なる問題」と日記に書いている。いかに宮中で重大な問題と認識されていたかがわかります。
こうした点も含めて皇太后の責任が問われなければならないと思いますが、話をハンセン病に戻すと、患者自身が皇室を「聖」「浄」、自らを「卑」「賤」とする図式をそのまま受け入れてきたこともまた事実だと思う。社会のなかでつくられた「聖」「浄」と「卑」「賤」の関係そのものを問い直す必要があるのではないでしょうか。
たとえば本書『宿命の戦記』の中に、笹川氏が口癖のように言う〈オートバイの前輪と後輪〉の話が出てきますが、彼はこの病気を医学的に撲滅することを前輪、患者への差別をなくすことを後輪に喩え、その2つが完全に達成される日まで自分は戦うと宣言している。とくに今日では病気そのものより、差別の問題の比重が大きくなっていて、ハンセン病というのはつくづく「社会的な病気」だと。