プロ野球の世界で球団の“身売り”といえば選手にとっても一大事で、実際に起こると様々な混乱があったという。1967年にドラフト3位で西鉄ライオンズ(現在の西武)に入団した竹之内雅史氏が、ゴルフ場開発会社の太平洋クラブが親会社になった1973~1976年当時の奇妙なユニフォームの思い出を語った。
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3年連続日本一になったこともある西鉄ですが、「黒い霧事件」(*1969年に発覚したプロ野球に八百長事件。西鉄の選手を中心に約20名が処分された)以降は戦力が低下し3年連続最下位。人気も衰え、客が入るのは南海戦だけ、入っても1万人という有様でした。
結局、1972年に太平洋クラブに身売りされますが、この太平洋クラブ時代が辛かった。球団がボールをケチるなど練習環境は最悪。活躍してもカネを出してくれず、遠征先でも食事が自腹という状況で、ほとんどの選手が球団のやり方にしらけていました。
その4年目に登場したのが「胸番号ユニフォーム」です。背中にも一応、背番号と選手名が書かれていましたが、パッと見はどちらが前か後ろかわからない代物。球団は話題作りのつもりだったようですが、選手からしたらいい迷惑です。他球団の選手から「アメフトでもやるのか」とからかわれましたよ。
そして、なぜか胸にあるべき球団名がない。「身売りしやすくしたんじゃない?」なんて選手間で冗談を飛ばしていた。あまりに不評だったのと、前期が完全なビリだったため後期から胸番号を廃止したユニフォームに戻したが、結局シーズンを通しての最下位(当時のパ・リーグは前期と後期の2シーズン制だった)。
翌年、本当にクラウンライターに身売りされた時は驚きました。
●たけのうち・まさし/1945年神奈川県生まれ。日通浦和を経て、1967年ドラフト3位で西鉄入団。独特の打撃フォームで知られ、通算166死球は清原和博に抜かれるまで日本記録。
■取材・文/鵜飼克郎
※週刊ポスト2018年6月1日号