数々の小説や漫画、映画にテレビドラマ、ゲームなどでも人気キャラクターとしてよく取り上げられる剣豪・柳生十兵衛。片目に眼帯をした隻眼姿で描かれることが多いが、実際はどうだったのか。『ざんねんな日本史』(小学館新書)を上梓した歴史作家の島崎晋氏が、その知られざる顔を紹介する。
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柳生一族といえばどうしても剣豪集団とか、幕府の裏の仕事の担い手というイメージがつきまとう。なかでも絶対欠かすことのできないのが、徳川将軍家の兵法師範を務めた柳生宗矩とその嫡男・柳生十兵衛のふたりだろう。
十兵衛が剣の達人であったのは本当のことで、その実力は父をも凌ぐと言われた。元和五年(一六一九)、徳川家光の小姓として仕え始めたが、家光を怒らせたことから、寛永三年(一六二六)に職を辞した。それから一二年後に再出仕するまで、故郷である大和国柳生庄(現在の奈良県奈良市柳生町)で門弟の指導にあたっていたというのだが、表舞台から姿を消していたこの一二年間が後世の人びとの想像力を刺激した。
家光から特命を受け、幕府の隠密として諸国を遍歴していたとの話が、いつの頃からか語られ始め、ついには講談の『柳生三代記』など、宗矩と十兵衛および十兵衛の弟又十郎を主人公にした剣豪物語が人気を博するようになった。
そこに登場する十兵衛は隻眼と決まっている。まだ幼い頃、父宗矩が腕を試そうと不意に投げた石礫をよけそこねて隻眼になったというのだが、現実にはそのようなことはなく、十兵衛は両目ともしっかり見える、一分の隙もない剣豪だった。
ただ強いだけではなく、ハンディを負いながら日本一の剣豪となった隻眼伝説は講談師が話を盛るために創作したと見てよい。
※SAPIO2018年5・6月号