6月末から始まるユネスコの世界遺産委員会で、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録される見通しだ。江戸幕府による禁教下で密かに信仰を守り続けた人々の歴史に改めて光が当たろうとしている。ところが、その登録推進キャンペーンが始まった当時の長崎県知事・金子原二郎氏(現・参院議員)は、一抹の“心残り”を告白する。その理由は、金子氏の出身地である“最後のかくれキリシタンの島”と呼ばれる「生月島(いきつきしま)」が、構成資産に含まれていないことと関係があるという。一体、どういうことなのか──。新刊『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」──長崎・生月島の人々』の著者・広野真嗣氏がレポートする。
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「なんとしても生月島を(世界遺産の構成資産に)入れたいと思っていたのだけれど……」
2010年まで、3期12年にわたって長崎県知事を務めた金子原二郎氏は、そう言って唇を噛んだ。約15年前から世界遺産登録に向けて動いてきた長崎県で、その当初にキャンペーンの先頭に立ったのが金子氏だった。74歳になった現在は、参議院で予算委員長の要職にある。
金子氏は長崎県の西北端、東シナ海に浮かぶ「生月島」の出身だ。この島こそが“最後のかくれキリシタンが暮らす島”である。ちなみに、金子氏の父・岩三氏(故人)は、生月島で巻き網漁業の網元から身を立てて政治家となり、第一次中曽根内閣では農林水産大臣まで務めた人物である。金子氏が口を開いた。
「漁業を生業としていた我が家もかつて、400年以上前から続く『かくれキリシタン信仰』を守ってきた家庭でした。小学2年で島を出るまで、毎年盆と正月は近所の信徒が“神様”を祀っている我が家に集まって拝みに来ていましたよ。その頃、島ではまだ皆、先祖が守ってきた信仰を続けていたんじゃないかな」
生月島は1549年のザビエル上陸後、イエズス会が初めて民衆の一斉改宗を行った地域だ。17世紀に徳川幕府によって全国禁教令が発せられると、教義を説く宣教師は処刑されたり、追放されたりするなどした。
そのため、生月島に残る信仰は、現代の私たちが抱く“キリスト教のイメージ”とは、だいぶ違っている。日本画風に描かれた聖母子などの聖画に向かって「オラショ」と呼ばれる祈りを捧げる独特のスタイルになっているのだ。
「仏壇の後ろに“納戸”があって、そこに“神様(聖画)”は大切に守られてきた。私は小さかったから、その内側を見ることはほとんどありませんでしたが」