歴史上の偉人でも、妻には頭が上がらなかった。たとえば“日本史上ナンバーワンの猛妻”と歴史家たちから称えられる(?)のが、源頼朝の正室・北条政子だ。
頼朝や息子たちの死後は「尼将軍」として幕府の実権を握った政治手腕で知られるが、頼朝の妻としては一夫多妻が当たり前の時代でも側室や妾を許さなかった。嫉妬心の強さたるや尋常ではなかったといわれている。
歴史作家で多摩大学客員教授の河合敦氏が語る。
「頼朝が妾である亀(かめ)の前(まえ)を鎌倉に呼び寄せた際、それを知った政子は激怒し、亀の前が身を寄せていた邸宅を家臣に破壊させたことが鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に記されています」
頼朝の寵愛を受けていた別の妾・大進局(だいしんのつぼね)が頼朝の子を出産した際は、政子は大進局とその息子を鎌倉から追放した。
※週刊ポスト2018年6月22日号