さらに注目すべきは、小倉藩の家老で門司城代(城主の代理)でもあった沼田延元の家人が著わした『沼田家記』という記録である。
これによれば、小次郎は一対一の勝負という約定を守り、単身で来ていたが、武蔵の側では数人の弟子がひそかに島に渡り、物陰から決闘の様子を注視していた。武蔵は小次郎の命まで奪いはしなかったが、武蔵の弟子たちは蘇生した小次郎にわっと襲いかかり、とどめを刺した。それを知った小次郎の弟子たちが仇を討とうと大挙して島へ渡ったところ、武蔵は門司城に逃げ込み、沼田延元に身柄の保護を求めて助かったという。
剣豪同士の決闘が、最後は集団リンチに終わってしまったというのだが、果たして真相や如何に。
※SAPIO2018年5・6月号