6月9日に、皇太子ご夫妻が1993年のご成婚から25年の「銀婚式」を迎えられた。皇太子と雅子さま揃っての記者会見が期待されていたが、設けられることはなかった。会見がなかったのは、天皇皇后両陛下の被災地訪問と重なったことが理由だ。そして、皇太子ご夫妻からは文書での回答が寄せられた。
《この25年間は、短かったようでもあり、長かったようでもあり、沢山の喜びも悲しみもありましたが、皇太子殿下には、いつも傍らで私を支えて下さいましたことに感謝の気持ちで一杯でございます》
雅子さまは、文書にそうも綴られていた。皇室ジャーナリストが言う。
「皇室に入られてから、公式の場で『悲しみ』に直接的に言及されたことは恐らく初めてのことで、非常に驚かされました。確かに、雅子さまが嫁がれてから、公務を果たせないことや、愛子さまの登校問題などに、さまざまな心ない批判が向けられたことがありました。その中でもいちばんの悲しみは、そのお体に宿した新しい命を失われたことではなかったでしょうか」
ご結婚後、雅子さまには「早くお世継ぎを」という期待の声が集まった。ご結婚から6年経った1999年12月、雅子さまは待望のご懐妊。だが、これがあらぬ火種となる。
「両陛下への報告前、宮内庁内部でもごく限られた人間しか知らないタイミングで、ご懐妊の兆候を朝日新聞がスクープしたんです。雅子さまにとっては周囲への不信感が募り、過熱報道が大きな精神的負担となってしまった。同年12月30日、妊娠約7週目で、雅子さまは稽留流産の手術を受けられました」(前出・皇室ジャーナリスト)
雅子さまの失意の深刻さは相当なものだっただろう。皇太子妃として民間から皇室に嫁いだ女性は、長い日本の歴史上たった2人しかいらっしゃらない。雅子さまと、美智子さまだ。
皇太子さまの誕生から3年後の1963年3月、美智子さまの第2子ご懐妊を宮内庁が発表した。ところがわずか半月後、人工流産の処置がとられた。宮内庁長官は、「精神的な疲労が大きかったようにお見受けされ、それが流産の原因ではないか」と明かした。
「ご結婚以降、民間出身の美智子さまは、いじめにも近い孤立した状況に追いやられました。唯一の支えは当時皇太子だった陛下だけ。お世継ぎをお産みになったとはいえ、その頃の美智子さまは結婚当時より10kg近く体重が減っていたといいます。ある女性皇族は、“せっかく東宮さま(皇太子さま)のお子を宿しながら、流産するとは何事か。(平民の娘だが)立派なお子を産むだろうと、お妃になるときに賛成したんですよ”と言葉を投げかけられたこともあったそうです」(ベテラン皇室記者)
雅子さまからさかのぼること36年前に、美智子さまもとてつもない悲しみに耐えていらっしゃったのだ。
「“いちばん悲しかった日”を迎えた雅子さまを、同じ経験をされた美智子さまがお支えになったのは想像に難くありません。その後、雅子さまの療養のトンネルは長く険しいものとなり『途絶状態』が囁かれたこともありました。それでもより深い場所で、雅子さまと美智子さまは強く結びつかれていたのではないでしょうか」(別の宮内庁関係者)
バトンが引き継がれる日が、刻一刻と近づいている。
※女性セブン2018年6月28日号