森友学園の国有地売却に絡む財務省による公文書改ざん問題で、佐川宣寿・財務省前理財局長や麻生太郎・財務大臣の口から発せられた、忖度やウソ、ごまかしの言葉が世間を揺るがせている。なぜ、大人は嘘ばかりつくのか。
「ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれる」──幼い頃から聞いたこのことわざを信じるわけではないけれど、悪いことをすれば相応の罰が下される。これは私たちがウソをつかず、ごまかしもしないでいる1つの歯止めになっている。しかし、彼らは違った。何のための法なのか。中央大学法科大学院教授の野村修也さんに聞いた。
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佐川宣寿氏が不起訴になったことに対して、“不起訴ありきだったのではないか”“政権への忖度か”など、不満の声も聞こえますが、あの判断は専門家からすると不自然ではありません。むしろ、起訴されるようなこととなれば、“世論への忖度”を疑います。
しかし逆に、不起訴になったことで「問題はなかった」「みそぎは済んだ」という声を上げるのも間違いです。「法律」と「道徳」の関係性には、“法律は道徳の最小公約数”という考え方があります。道徳という広い規範の中にごく一部、法律で定められ、違反すれば罰則を受けるルールがある。
だけど、罰則を受けなかったからといって、その行為が「正しい」というわけではなく、“悪いことには違いないけど、裁くほどのことではない”ということなんです。多くの人は、道徳と法律の大きさが同じだと思っているから、罰則を受けないことに腹を立てます。
だけれども、悪いことはすべて裁かれるわけではない。だとすれば私たちは、その人に道徳という範囲で、反省させるために、同じことを二度と繰り返さないために、信頼を回復させるために、どうすればいいか、あきらめずに考え、声を上げなくてはいけません。
ウソやごまかしに満ちた社会にウンザリ、といいますが、本当にそうでしょうか。閉塞感の原因はウソやごまかしの蔓延ではなく、ウソやごまかしについての一方向のみの報じ方、捉え方にあるのではないでしょうか。「ウソは悪だ」「ウソつきは悪者だ」と責め立てるだけでは、行き詰まるのは当然のことです。