認知症の母(83才)の介護にあたるN記者(54才・女性)。母の物盗られ妄想に悩んだが、サービス付き高齢者住宅(以下、サ高住)に入居し、お金が不要な生活となり、症状は落ち着いた。しかし…。
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6年前、父が急死したことで独居になった母。頻繁に「お金がない、財布がない」と電話をしてくるようになり、「今警察に、N(私)が怪しいと告げたから、もうすぐ刑事がそちらに行くからね」と、妄想は次第にサスペンスドラマの様相を呈していった。
当時の母は、そんな状態にありながらも、毎日片道30分かけてスーパーに歩いて行き、日々の食材や日用品を買っていた。亡き父に代わって私が2万~3万円ずつ下ろし、母の財布に入れるようにしたのは、やはり認知症でカード類を持たせるのが心配だったから。クレジットカードも解約し、現金払いを徹底した。
その後母は激やせし、自炊を断念した時点でも、冷蔵庫の中には賞味期限切れを含めてたくさんの物が詰まっていた。ルーティンとはいえ、買い物は続けていたらしい。自分の生活を支える財布だからこそ、それが見当たらない不安が、滑稽なほど大きな妄想を生んだのかもしれない。
その後、今の住まいであるサ高住に転居。食事は食堂に頼み、日用品はたまに私が買って届けることでこと足りた。母が現金を扱う必要をなくしたのだ。母の不安の元凶を一掃するつもりだったが、その目論見は大当たり。
サ高住での生活が始まると間もなく、母の物盗られ妄想はピタリとやんだ。わかってはいても、やはり実の親に泥棒呼ばわりされたことはつらかったから、心の中でガッツポーズをした。
「やきとり! 買って帰ろうかしら、パパの晩酌の肴に」
母と出掛けた帰り道、夕暮れ時の商店街に出ていた屋台を見つけて、母がつぶやいた。一瞬、父の生前にワープしたようだがすぐに取り繕った。
「もうパパはいないけどね(笑い)。パパは日が暮れると自分で晩酌の用意をするのよ。夕飯の支度をしている間、やきとりでも出しておけば、勝手に飲んで待ってるの。手間のかからない人だったわね」
父はもっぱらウイスキー党だった。グラスに山盛りの氷を入れ、ウイスキーを注いで指で氷を回す。そこに添える何かいい肴がないかと、母はいつも考えていたのだろう。
私も主婦の端くれだからわかる。仕事中でも頭の片隅ではいつも夕飯のことを考えている。疲れた足取りでスーパーに寄り、いい献立がひらめくような食材が買えると、一気に気持ちがアガるのだ。
買い物はオンナの底力を呼び起こす。母にはもうその機会がほとんどない。買い物を巡るリスクと引き換えに母が失ったものに、今さらながらに気づかされた。
今も母の財布にはつねに1万円くらいの現金を入れてある。母が唯一、1人で行ける近所のコンビニで、雑誌や父の仏前に供えるお酒を買うためだが、必要に迫られているわけではない。そういえば街中のブティックで、気になる服を手に取ることも少なくなった。
それでも好きな書店に行くと、かろうじて買い物欲の炎が燃え上がる。さんざん迷って買う本を選び、うれしそうにレジに向かう母を見るにつけ、この小さな炎だけは消すまいと、改めて心に誓うのだ。
※女性セブン2018年7月19・26日号