作品の看板を背負う主演俳優にとって、求められる役割を全うすることが第一だ。一方で、「期待に違わぬ働き」と、「殻を打ち破る仕事」は相反しやすいのも事実。つまり、存在の大きな役者であればあるほど作品の都度マンネリと戦うことになる。ドラマウォッチを続ける作家で五感生活研究所代表の山下柚実氏が指摘する。
* * *
夏ドラマが続々とスタート。中でも注目の一作が、ヒットメーカー・野島伸司脚本、石原さとみ主演の『高嶺の花』(日本テレビ系水曜午後10時)。視聴者の高い期待を反映してか、初回平均視聴率は11.1%と二桁台の好スタートを切りました。
物語は……名門華道の月島家に長女として生まれた、もも(石原さとみ)が主人公。いわゆる「お嬢様」で美貌と華道の才能を兼ね備える一方、その名にそぐわないアクティブさ、天衣無縫な行動をとる一面も。また、結婚直前に婚約者から裏切られて自律神経失調症になり、味覚障害を抱えているといった繊細な一面もあわせ持つ人。
そのももが偶然出会ったのが、風采の上がらない中年でモテ歴ゼロの風間直人(峯田和伸)。才能も美貌もある「高嶺の人」が、自分を丸ごと受け入れてくれる自転車屋の風間と恋愛関係に……という展開らしい。
第1話はまさしく「石原さとみ」感全開。あらためて存在感のある女優、ということを思い知りました。逆から言えば、「月島もも」という人物から「高嶺感」が漂ってこない。歴史と伝統のある名門に生まれた女性なのに、そこに居るのはまさに「石原さとみ」そのもの。気品や奥ゆかしさ、華麗さがそのしぐさや表情から滲み出てこないのは、なぜ?
伝統文化を守り続けてきた家系、「道」の宗家といったものは、どんな分野であっても奥が深くて複雑な独特の世界を持っています。本質的・思索的とも言えるし、秘密もあれば謎もある。悪くいえば前近代的・閉鎖的で、しかしその分、うさんくさいほどに面白く味わい深く掘れば掘るほど発見があり、さまざまな物語が生まれ出る独特のワールドのはず。
それなのに……。残念なことに『高嶺の花』では、名門華道の家という設定を「小道具」程度の装飾物としか扱っていないように映ってしまうのです。一言でいえば、華道というテーマに対する向き合い方が薄っぺらい。
一般的に、お花というと何だか花嫁修業のように思うかもしれませんが、例えば華道の根源・池坊の家元は、紫雲山頂法寺(通称六角堂)の住職を兼ねています。つまり、仏教の僧侶。また池坊の名称は聖徳太子が沐浴した池に由来していて、つまり仏教と花とは深い関係にあります。
「高嶺」の二文字が示すのはそれほど「高い」「嶺」を極めるということ。華道を中途半端に扱うとすれば、ももが「名門華道」の「高嶺の人」に見えてこないのも当たり前かもしれません。