【書評】『日本の醜さについて 都市とエゴイズム』/井上章一・著/幻冬舎新書/800円+税
【評者】池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
井上章一はつねに異説をとなえる学界の横紙破りとみなされているらしいが、どうしてだろう。視点が新鮮で、博捜して分析的に考え、通説や権威にとらわれず結論を出す。デビューしたときから一貫してかわらない。
日本人は調和を大切にする協調的な国民だと言われてきた。日本の社会科学は、西洋は近代的な自我を開花させたが、日本は集団主義で、「和をもって貴しとなす」国民性だと言いつづけてきた。
建築史家、文明史家井上章一は、そんな通説が腑におちない。街を歩けばすぐにわかるが、建物も何もかもてんでんばらばら。協調と統一感など、あったものではない。ヨーロッパに行って、美しい景観の中に佇むと、いやでもわかってくる。社会科学者が唱える自我の開花と集団主義は、まさに正反対の命題になるではないか。
第二次大戦が終わったとき、ポーランドの首都ワルシャワは徹底して破壊しつくされていた。それをワルシャワ市民は、かつての麗しのワルシャワに復元した。内部は、現代化したが、外部は元通りの歴史的建築を甦らせた。
日本の古都京都はアメリカ軍の絨緞爆撃を免れた。戦前からの優雅な街並がほとんど無傷でのこされていた。だが今の京都の大半は無秩序な、雑然としたビル街であって、それをしたのは当の京都市民である。町家を見限ってビルにすればテナント料が入る。「木の文化」だから耐用性がどうとかは、ていのいいごまかしであって、「街並を一新したのは、まちがいなく利潤をもとめる近代化のいきおいであった」。
『日本の醜さについて』は、こうすれば日本の都市も、もっと美しくなるといった提言など一切していない。同感である。どう言っても、しょせんは無理だろう。タイトルは、より正確には「日本人の醜さについて」であって、「利潤をもとめる近代化」がしみついた国民を、一抹の哀しみをこめて語っている。「社会科学方面からの反響」を期待して閉じられているが、心やさしい反語ではなかろうか。
※週刊ポスト2018年7月20・27日号