「埼玉野球の父」と呼ばれた男がいる。県立上尾高校の監督として、春夏6回の出場を果たした野本喜一郎だ。1975年夏の甲子園では、原貢監督と辰徳の親子鷹で注目を集めた東海大相模を下し、ベスト4に進出した。
しかし、野本は1984年4月に上尾の監督を退任し、創立間もない浦和学院の監督に転身。上尾は同年夏こそ選手権大会に出場したものの、その後は一度も聖地を踏んでいない。
野本就任の2年後、浦和学院は埼玉を制し、甲子園初出場を決めた。だがベンチに指揮官の姿はなかった。夏を前に体調が悪化し、1986年8月8日、野本は上尾市内の病院で死去(死因はすい臓出血、享年64)。くしくも甲子園の開会式が行われた日だった。当時、浦和学院の2年生だった鈴木健(元西武ほか)が振り返る。
「体罰が当たり前にあった時代に珍しく、野本さんの指導は優しかった。僕は怒られたことがない。野本さんは元プロ野球選手(西鉄ライオンズほか)ですから、効率を考えた練習メニューで、指導も理論的だった」
今夏、上尾は北埼玉大会決勝に駒を進めるも花咲徳栄に敗れ、34年ぶりの甲子園出場は叶わなかった。一方、浦和学院は圧倒的な打力で南埼玉大会を制し5年ぶりの出場。明暗を分ける結果となった。(文中敬称略)
●取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター、『永遠のPL学園』著者)
※週刊ポスト2018年8月10日号